暮らしの中に民藝を 第4回
理事長 山田 育男
「歴史」の力(承前)
工藝の美しさを生んでいる基礎として「自然」と、もう一つ「歴史」があることを書きました。では、ここでいう「歴史」とはどのようなことを言うのでしょうか。それは「民族の歴史」です。柳宗悦は次のように書いています。
「どんな個人も、遠い過去から現在に至るまでの長い民族の歴史を背負ふてゐるのであります。歴史なくして何ものの存在も許されてはをりません。古きものの中から生まれたに過ぎません。時間を裁断することが出来ないものです。吾々の一生は歴史を受け継ぎ歴史を手渡すことに外なりません。」(前掲書)
柳宗悦は、私たちがこうして暮らしているのは、私たちの考えや、暮らしぶり、作るものに至るまで、何一つ、私たち自身がはじめて生んだものではなく、「その後にはいつも祖先の知恵や経験が控へてゐる」と言っています。たとえば、「平凡な草鞋一足を取つてみても、同じ道理が含まれてゐる」のです。つまり、「平凡な草鞋一足」をつくるには、「今までの草鞋を手本にして、その作り方を真似る」より仕方がないのです。そのことは、結局、「自分一人では作る力がないこと」や、「作るには手本に頼らねばならないこと」に気付かされるのです。
「自分に腕前があつて出来るのだと思ふ仕事も、実はどんなに多くの祖先の助けを借りてゐることでせう。材料のこなし方や作る方法など、長い間に代々伝へ伝へて、漸次発達し進歩し、今日の技に至つたのです。」(前掲書)
柳宗悦は、以上のように、系統を経て伝えられることを「伝統」と呼んでいます。伝統を尊ぶことは、祖先の恩を感謝することだとも言っています。したがって、柳宗悦がここで論じている「伝統」とは、とりもなおさず、「祖先から脈々と伝わつてゐる文化の系統」を指します。
「そこには長い歳月と大勢の人達とが集まつてゐるのでありますから、そこに見られる経験や知恵は実に奥行が深く又巾が広いのです。かう云ふ力の前に出ると、一人の力はどんなに弱く脆いでありませう。この世に美しいものがあつたなら、それがどんなに斬新に見えても、後には必ず何等かの伝統が働いてゐることを悟られるでせう。」(前掲書)
NHK・Eテレの『こころの時代 衆縁に生かされて ~民藝100年~』の中で、私の尊敬する出西窯の多々納弘光が陶芸家の河井寛次郎との間で交わされた「伝統」に関するエピソードについてふれています。とても興味深いので、以下に紹介したいと思います。
多々納弘光は河井寛次郎に「自分には才能がない」ということを言った際、河井寛次郎に本気で怒られたというエピソードを話しています。以下は河井寛次郎の言葉です。
「お前は何を言っておるか。お前にはお父さんとお母さんがおって、そのお父さん、お母さんにもそれぞれお父さんとお母さんがおる。10代遡ってみろ。何千人の遠いお父さんとお母さんが遡れるか。百代遡ると、数えないほどの無数の人になる。そうすると、お前の血の一滴の中には、ありとあらゆるものが内在している。つまり、恵まれている。「才能がない」なんてそんなことを自分に対して言ってはいけん。お前、口を開けろ。おれがお前の才能とやらを引っ張り出してやろうじゃないか」
多々納弘光をいつも温かく見守り、少しでも良いところを見つけて褒めて元気づけてくれてきた河井寛次郎が、この時だけは怒りをあらわにしたのは、多々納弘光への叱咤激励の意味(「あなたには多くの祖先から手渡された力が宿っている」)もあったとは思いますが、それだけではないでしょう。「物づくり」の根底にある「伝統」への希薄さ(「伝統を粗末に扱ってはいけん」)を問いかける「苛立ち」」だったのかもしれません。河井寛次郎にとって、多々納弘光の「才能がない」という言葉には、「祖先の恩への感謝」が足りないと感じたのでしょうか。「伝統」への蔑みさえ感じたのでしょうか。いずれにせよ、河井寛次郎が多々納弘光に迫った言葉は、手仕事を志されてきた多々納弘光の内部にいつまでも突き刺さる貴重な言葉として残ったことでしょう。
河井寛次郎が多々納弘光にとって素晴らしい師であったのかがわかるエピソードです。
また、河井寛次郎と交わされた「伝統」に関するやりとりを聴いていた時、私は柳宗悦の以下の言葉を想起したのを覚えています。
「醜いものがあつたら、伝統を粗末に扱つた酬いだと考へていいでありませう。」(前掲書)
柳宗悦にとって、「美しい物をつくる」ことは、「自然への畏敬の念」と「伝統への恩」(「祖先への感謝)があってこそなのだと思います。
自分の力では何一つできない、すべては「大いなる力」によって成り立っているのだという自覚と尊敬なくして、美しい物は生まれようがないのです。
私は『こころの時代』で語られる多々納弘光の人柄や、物づくりへの姿勢、そして生き方に大変感銘を受けた一人です。こうした方が存在する背景には、畏怖する多くの師たち(柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司、バーナード・リーチなど)がいたからにほかなりません。
ちなみに、私は、毎週の土曜日の夜には、必ず、自分を鼓舞する意味で、『こころの時代 衆縁に生かされて ~民藝100年~』を観て、新しい週を迎えるようにしています。したがって、私にとって、多々納弘光は「こころの先生」です。(続く)
写真1枚目 與那覇有羽 クバ細工(沖縄)、写真2枚目 鳥越細工(岩手)、写真3枚目 上平福也 栗取りかご(岩手) 写真4枚目 城戸繫延 手付きかご(熊本) 写真5枚目 小石原焼 梶原藤徳 壺(福岡) 写真6枚目 (本)出西窯・多々納弘光(島根) 写真7枚目 上平敬 横田かご(岩手) 写真8枚目 小鹿田の窯元
暮らしの中に民藝を
第3回
理事長 山田 育男
日本民藝館の「聖像・仏像・彫像 柳宗悦が見た『彫刻』」展の特別展の他に、併設展として、竹や藁、樹皮など自然の素材を編んだり組んだりする技法が用いられた「編組工藝品」の部屋がありました。その中で興味深かったものとして、「亀子笊(山形県鶴岡)」、「朝鮮のオンドル帚」、「山形県の雪沓」などがあったことを紹介しましたが、それらの編組工藝品のすべてが自然を素材にしてできているということでした。民藝の美しさはまさにそこにあるといってもよいと思います。
そこで、第3回では、日本民藝館に所蔵されている工藝品がどうして美しいのか、柳宗悦の言い方でいえば「どうして美しい品物が生まれてくるのか」ということを書いてみたいと思っています。そう考えた場合、「自然」と「歴史」ということにふれないわけにはいきません。このことは、大変重要なことですので、柳宗悦の『工藝の教へ』の言葉にふれながら、考えていきたいと思います。長くなりますが、お付き合いください。
「自然」の力
柳宗悦は、品物は人間が作るが、その背後にはいつも「自然」と「歴史」の二つの力が働いており、この基礎なくして、「美しい物はつくることができない」と言っています。ここで言う「自然」とは「気候風土」、「地理の変化」、「資材の種類」などのすべてを含みます。
日本の自然は、北方は寒い地方で、冬が長く雪が深い国々、南方は気候が暑く光が強く雪は降らない。また、その中間は温度がゆるやかで、寒暖の差は激しくない。日本の自然は、寒温熱の三帯にわたっている国なのです。
気温の相違は、資源の多様な変化を生みます。つまり、それは日本が様々な資材に恵まれていることを意味しています。ということは、気候の変化によって、様々な地方に住む人々の暮らし方にも相違があるということです。
柳宗悦は次のように書いています。
「北の方は半年近くも雪に包まれる暮らしをしなければなりません。(略)。ですから、爐を囲んで暖をとる暮らしが行はれます。着物とても雪や寒さに備へるものでなければなりません」(前掲書)
「南は常夏の國と云ってよく、(中略)光は強く、暑さは酷しく、時として季節風が吹きすさびます。暑い地とて必然に衣は薄く、彩りも四囲に添ふやうに華かになります」(前掲書)
「どうしても北の方には、寒さと戦ふ努力の生活が見られ、南の方にはどこかゆるやかな明るい暮らしぶりを見出します」(前掲書)
「かう云ふやうな暮らしの違ひが、違ふ性質の品物を産み出すのは当然であります」(前掲書)
柳宗悦は、「自然」と「工藝」との深い関係がまともに示されているのは「材料」であり、「材料」は自然の恵みのしるしだと書いています。
「工藝の美しさの半は材料の美しさであると云っても過言ではありません」(前掲書)
ただし、柳宗悦は「材料はどこでもある材料」ではなく、「地理が定めた材料」でなければならないことを付け加えています。なぜなら、工藝はその土地の材料によって栄えたからです。また、その「材料こそは品物をも用途を決定する原因であ」った、と。たとえば、竹の性質が組んだり編んだりする技法を産み、「籠」や「笊」を招き、あるいは、瀬戸に焼き物が栄えたのはその土地に適した「陶土」が見出されたからだと言います。また、土地と品物との関係は、「瀬戸物」「結城」「黄八丈」など、「土地の名前が品物の名前さへな」っています。これはまさに「品物の地域性」を意味していると柳宗悦は言っています
以上の事柄を整理するだけでも、工藝の美しさが「自然」と結びついていることは明らかです。
「歴史」の力
冒頭で、工藝の美しさを生んでいる基礎として「自然」と、もう一つ「歴史」があることを書きました。では、ここでいう「歴史」とはどのようなことを言うのでしょうか。「自然」と同様、柳宗悦は「歴史」をきわめて重要な位置づけとして論じています。横道に逸れますが、柳宗悦の論じる「歴史」について、私が個人的に感銘を受けた文章は「朝鮮の友に贈る書」(『民藝四十年』岩波文庫所収)でした。ここで論じていた朝鮮民族の歴史については、これから論じる「歴史」の捉え方と通底する、きわめて重要なことを書いています。この文章は、柳宗悦の人柄や、民藝運動の思想を知るうえでも白眉です。そのことについては後に述べたいと思います。(続き)
写真1枚目 富本衛 ガイジル(沖縄)、写真2枚目 城戸繫延 背負い籠(熊本)、写真3枚目 津嘉山寛喜 バーキ(沖縄)、写真4枚目 井上湧 背負い籠(長野)、写真5枚目 小鹿田焼の陶土(大分)、写真6枚目 田口召平 太平箕(秋田)
暮らしの中に民藝を 第2回
理事長 山田 育男
前回、日本民藝館で開催されている「聖像・仏像・彫像 柳宗悦が見た『彫刻』」展の特別展の「地蔵菩薩像」についてふれました。その他に併設展として各部屋ごとに分かれていました。とりわけ、興味深かったのは「編組工藝」の部屋でした。竹や藁、樹皮など自然の素材を編んだり組んだりする技法が用いられた工藝品です。
部屋に展示されたすべての編組工藝品は美しかったのですが、その中でも一番目を引いたのは、亀子笊(山形県鶴岡)でした。(左の写真は亀子笊ではなく、水俣の笊です。この笊は縁がキュッとしまっていて、美しいですね)。とりわけ、亀子笊の「縁」の部分が非常に美しく編まれており、大変驚きました(実は、この部屋に入ってすぐ私の目に飛び込んできた編組工藝品が、この亀子笊だったのです。他のものはまったく目に入らず、です)。展示会すべて観終わった後、もう一度観に行ったほどでした。昭和9年民藝館所蔵の「亀子笊」については、柳宗悦の著書『手仕事の日本』(ワイド版 岩波文庫)の中で取り上げられています。柳宗悦はこう書いています。
「鶴岡で出来るものでは、竹細工に見るべきものがあります。『亀子笊』と呼ばれるものは、縁作りが丁寧で、巾広く網代編みにし、所々を籐で抑えます。形といい作りといい笊の類では一等でしょう。」
上記の亀子笊について、かつて手仕事フォーラムの横山正夫さんは「失われし物」という文章の中で、昭和50年代に制作現場を求めたものの、後継者がいなくなったことを憂いでいました。
「昭和9年、柳宗悦の発見から、その保護、育成を図っていれば、この美しい笊は消滅することもなかったのではないかと思われます。」(横山正夫「昔の物 今の物『失われし物』」手仕事フォーラム・ホームページ)
※民藝館蔵品の亀子笊の写真掲載は難しいが、手仕事フォーラムのホームページ上では、昭和50年代に再現された現物が5枚写真で掲載されています。そちらをご参考にされていただけると幸いです。さしあたってここでは、yahoo検索で掲載されていた横山さんの写真1枚を援用させていただきます。
その他に興味深かったものとして、朝鮮のオンドル帚、山形県の雪沓でした。はじめて観たもので、名称を覚えることが難しかったものがまだ数多くあり、紹介できないのが残念です。藁で細かく編んだ小さな蓋物の編組品も素晴らしかったですね。
いずれにせよ、驚きなのは、すべての編組工藝品が自然を素材にしてできているということです。現代に生きる私たちにはもはや考えられませんが、日本民藝館で観ることができる工藝品は自然を素材にして作られています。民藝の美しさはまさにそこにあるといってもよいと思います。
柳宗悦の著作を通して「民藝」を知る有名な本といえば、『工藝の道』『工藝文化』『民藝四十年』『民藝とは何か』『手仕事の日本』などが挙げられますが(しかも、文庫本で容易に手に入ります)、個人的な見解を述べれば、柳宗悦全集第十巻に収録されている『工藝の教へ』が最も「工藝」について、いや、厳密にいえば、「工藝の美しさ」についてわかりやすく整理された文章であり、私にとって多くの学びになりました。柳宗悦の『工藝の教へ』が全集のみでしか学べないことをもどかしく感じる次第です。
「美の問題に携わっていますと、如何に美に関する教育が大切であるかと云ふことが、ひしひしと感ぜられます。この世を美しくするためには、どうあっても一般の人々の教養が高まらねばなりません。それに対して一番基礎的な仕事は、結局教育だと云ふことに帰着します。」(『工藝の教へ』柳宗悦全集第十巻)
柳宗悦『工藝の教へ』の冒頭の部分です。柳宗悦が『工藝の教へ』を出さねばならなかったことは、冒頭からも容易にわかります。世の中の人たちが「美を観る力」がなくなってしまったこと、美について詳しい知識をもっていると勘違いしている人たちがたくさんいることに柳宗悦は嘆いています。こうした問題を解決するには「正しい見方を養う」ための「教育」が必要だと柳宗悦は考えたのです。したがって、『工藝の教へ』は「正しい見方を養うための教育」を目的に出された著作だということです。もちろん、柳宗悦はいままでにも「正しい見方を養う」ために『工藝の道』という名著を出されましたが、『工藝の教へ』の読者は、前著よりもはるかに一般の人をターゲットに据えて書かれている文章です。「後記」にも「若い人々のために、工藝の意義を語るために、筆をとった」と書かれています。したがって、『工藝の道』のような力みがまったくないため、『工藝の教へ』はきわめてリーダブルで、わかりやすいです。
本題に入る前に、横道にそれてしまいました。私が書きたいことは、日本民藝館に所蔵されている工藝品がどうして美しいのか、柳宗悦の言い方でいえば「どうして美しい品物が生まれてくるのか」ということを考えた場合、「自然」と「歴史」ということをふれないわけにはいかないからです。
その話は次回で簡単に整理したいと思います。
※上記の編組工藝品の写真
1枚目 アダンのぞうり(沖縄) 2枚目 水俣のしょけ(熊本) 3枚目 亀子笊(山形) 4枚目 面岸箕(岩手) 5枚目 日置箕(鹿児島)
暮らしの中に民藝を 第1回
理事長 山田 育男
先日、日本民藝館で開催されている「聖像・仏像・彫像 柳宗悦が見た『彫刻』」展を観に行きました。私にとって「日本民藝館」はたんに「美しい物」を観賞する場所だけではなく、私自身の「心」を見つめ直す貴重な場になっています。
館内全体は静けさに包まれ、どこか「教会」のような雰囲気さえ感じます。忙しい日々に追われていればいるほど、日本民藝館が所蔵する美しいものたちを観て、心穏やかな精神性を取り戻したいと思っています。
また、日本民藝館は、美しい物を愛する様々な立場の方々が集う場です。差別や争い事など、微塵も感じさせないそんな場で、私の中に「平和の心」を宿す大切な時間でもあります。
今回の特別展には、私が民藝にのめり込んでゆくきっかけとなった木喰明満作の「地蔵菩薩像」(江戸時代・1801年)が展示されていました。柳宗悦はその像とはじめて出会った際に「私は即座に心を奪はれました。その口元に漂ふ微笑は私を限りなく引きつけました。尋常な作者ではない。異数な宗教的體験がなくば、かかるものは刻み得ないー私の直覚はそう断定せざるを得ませんでした」(柳宗悦全集第七巻)「私の室に入る凡ての人も、それを眺めずに帰ることは許されませんでした。見る者は誰も微笑みに誘はれてくるのです。不思議な世界が漸次濃く私の前に現れてきました」(前掲書)と書かれています。
柳ほどの直観力を持ち合わせていない凡人の私でさえ、木喰上人の「地蔵菩薩像」に釘付けになった一人でした。ちなみに、木喰上人の木彫の多くは「微笑みのある仏の像」で、別名「微笑仏(みしょうぶつ)」とも呼ばれていますが、私は、その「微笑み」に魅了されて「民藝」にいざなわれたといってもよいでしょう。私はその「微笑み」の謎に迫りたく、柳宗悦の著作を読んだり、「微笑仏」の写真集(『木喰の微笑仏 図録』朝日新聞社)を眺めたりする日々が続きました。
その間、写真集を観ながらスケッチブックに「微笑仏」を模写したり、陶土を買ってきて「微笑仏」の顔を作って電気窯で素焼きしたり、「地蔵菩薩像」「自刻像」の版画をつくったりもしました。版画に至っては、同じデッサンを繰り返し板に彫り続ける日々が続きました。無我夢中で取り組みました。
不器用で、物づくりなどというものとは無縁な世界で過ごしてきた私でしたが、物づくりという「行為」を通して「微笑仏」の「微笑み」を感じてみたかったのかもしれません。もちろん、柳宗悦のいうように、「異数な宗教的體験がなくば、かかるものは刻み得ない」のですから、修行したことのない私が「微笑仏」の謎に肉薄できるはずがありません。ただ、わかったことといえば、物づくりなどしたこともなかった私がそうまでしてでもつかんで離さなかった「微笑仏」の魅力が、人間の「こころ」を揺さぶる何か(親しみのある素朴な美しさ)を持っているということでした。
また、そうした作業を通して、哲学者の西田幾多郎が論じていた「行為的直観」という概念を捉えるきっかけにもつながったのです。「行為的直観」への理解は、民藝の理解を進めていく過程でも深まり、さらに24時間体制でグループホームの支援及び介護をし続けている今の経験からも、「行為的直観」を捉えられつつあるのではないかと思っています。
そう考えれば、木喰上人の「微笑仏」は、私に様々な経験をさせてくださった偉大な彫像なのではないでしょうか。そして、グループホームという「暮らし」を組み立てる仕事に「民藝」を導入することによって、障害者グループホームの「暮らし」の質がさらに豊かになりました。
民藝は、障害者グループホームの「暮らし」の質を豊かにするアスペクトなのです。そうした観点で、もっと障害者グループホームを捉える人たちが増えていくことを願ってやみません。
最後になりますが、木喰上人は「微笑仏」をつくった人だけではありませんでした。木喰上人の和歌も注目に値します。柳宗悦は全集第七巻の中で、木喰上人の和歌の魅力にふれています。木喰上人の彫像を語るうえで、彼の和歌はきわめて重要だと思いますが、ここでは割愛させていただきます。ただ、私が好きな木喰上人の和歌を以下に紹介して、第1回の文章の筆を擱きたいと思います(上記の写真は、まるで「微笑仏」であるかのような利用者様の素晴らしい笑顔です)。
みな人の 心をまるく まん丸に どこもかしこも まるくまん丸
木喰の かたみはなにか なむあみだ かへすかへすも なむあみだぶつ