自尊感情の根拠を求めて
~里親活動と教育困難校の実践を通してわかったこと~
福岡県人権研究所教育部会員
原田 泉
先日、縁パワーの正会員であり、福岡教育大学大学院時代の学友であった原田泉さんが当法人の運営するグループホームを見学されました。
原田さんとの関係は、私が福岡教育大学大学院生をしていた頃、同じ研究ルームに所属し、教育方法学、とりわけ生活指導に関することや、学校現場の困難な生徒たちへのかかわり方について共に学び、熱く議論を交わさせていただいた学友でした。同じ研究ルームに所属していましたが、原田さんは私よりも20歳以上も年上の先輩です。にもかかわらず、いつも対等に接してくださった方でしたし、私が学校現場で取り組んできた実践を高く評価してくださった方でもありました。
人権意識も高く、差別問題に対して真摯に取り組まれてきた方ですので、原田さんは私にとって「学ぶべき人」です。それは今も変わりません。原田さんの所属する福岡県人権研究所教育部会会員の方々は、不勉強であった私に「人権意識とは何か」「人間の尊厳とは何か」「差別問題と向き合うことはどういうことか」をつねに考えさせてくださった貴重な「仲間」であり、「先輩」です。大学院を修了して15年以上も経過しましたが、「山田さん、元気にやっていますか」といつも気に掛けてくださいます。本当にありがたいことです。
今回はある事情で東京に来られ、その合間に私と会う時間をつくってくださいました。原田さんとの話は約2時間ほどでしたが、濃密で、貴重な時間を味わった気がします。
原田さんの話された内容の中で、私たちの障害者支援にも通じる、きわめて普遍的な支援のあり方についてのお話をしてくださいましたので、以下に整理したいと思っています。
原田さんの教育実践には、①教育困難校での取り組み、②里親活動、の2つがあります。2つの教育実践を具体的に紹介することは難しいため、①の非行・不登校などの生徒、②(児童養護施設から里子として里親家庭に行く)子どもに対して普遍的な支援のあり方について、原田さんの5つの考え方を紹介したいと思います。
1つめは、「子どもたちが生きていること自体に喜びを感じられているのか」ということです。原田さんは里親として子どもたちを観られて感じてきたことは、「生まれて来なければよかった」と思う子どもたちが多いということです。子どもたちには自尊感情を傷つけられており、しかも、人間の尊厳が奪われていると原田さんは感じています。子どもたちの目が輝き、胸を張って前向きに生きていくために大切なことは、大人たちの接し方や指導・支援が非常に重要であると考えています。
2つめは、「子どもたちが友人や周囲の人々と交われているか」ということです。子どもが孤立していれば、人間としての成長が望めないばかりか、社会的成長に至らない。大切なことは、少なくとも友だちと話ができ、信頼できる大人と語り合え、学びを得る環境の中で過ごせるよう、大人あるいは教師は助力しなければならないと原田さんは考えます。
3つめは、「困難な問題に直面した時に解決の方法を見出して、前進し続けられているか」ということです。
生きるということは、自分の思い通りにならないことが多いです。そのような状況が連続的に起きてきた場合、その対処の仕方をいくつも知り、乗り越えていく精神力、そして打破する知力を開発することが必要だと原田さんは考えます。
4つめは、「自分の好きなことや特性を見つけ、磨き、向上する努力を惜しまない姿勢ができているか」ということです。
自分の好きなことをし、特性を見つけて、それが仕事になる人生はかぎりなく幸せだと原田さんは考えます。それが他人に喜ばれ、社会に貢献できれば、本当の意味で充実した幸せだと言います。
5つめは、「子どもたちがモデル(目指す理想)としたい大人の生き様を見せられているか」ということです。
大人たちが「自分は子どもたちが目指すモデルの1つに何かしらなれているか」とつねに問い続け、子どもたちを裏切らず、子どもたちの幸福を願い、子どもたちが歓喜の人生を目指すことに尽力することが大切であると原田さんは考えます。
以上の内容は、私たちがグループホームを運営するうえで大切だと考える支援のあり方と共通しているため、非常に学ぶべき点が多いと考えます。
社会経済の変化にともなって、子どもの捉え方には大きな変化があることは事実ですが、原田さんの5つの考え方は、「かつての子ども」と「今の子ども」とを分けなくても捉えられる普遍的な考え方があると考えます。
原田さん、非常に貴重なお話をありがとうございました。
※原田さんからのお土産(「博多通りもん」)ですが、入居者の方々と一緒に美味しくいただきました。
識字にかかわるとは? ②
元小学校教諭・元特別支援学級担任
ナガサキ生まれの被爆2世
峰 司郎
「みんなと一緒に勉強したいい」というBさんの願い、保護者の熱い思い、C町の中で育まれてきた経過などを聞いてきた。「差別する側」としての自分を自覚させられ、私自身がどちらの側に立つのかを問いかけられてきた。しかし、その中で学級の子どもたちがBさんを排除しようとする差別事象を引き起こした。「Bさんだけに甘い」「Bさんだけ○○ちゃん」と先生たちは言う。それらのことばや雰囲気によりUさんが学校へ来れない学級をつくってしまった。
このことを通して、いったい自分は識字にかかわる中で、また学校の取り組みの中で何をしてきたのかと考える。被差別の側に学ぶとは、「子どもたちの姿」に学ぶことである。私自身がBさんや学級の子どもたちの言葉、姿を自分自身の照り返しとして考えようとする厳しさは、あったのか?「変わった」と思っていた私。実は「何も変わっていたのではないだろうか?」という問い直しを迫られた私が引き起こした事象である。しかし、私は、冷静に客観的にみれる状態ではなくなった。校長をはじめ全職員がこの重大さを受け止め夜中まで待機してくれた。それは、Bさんの学習権の保障という「同和」教育の原点を地域、校長をリーダーにした「同」推、学校総体が向き合ったことであった。
識字に学び、「同和」教育を原点として私は・・・?
個別の識字で、文字の練習をもっていく。雑談をしながら「呼びかけ文を」読む。班別の集まりで5~6人で文字の練習をする。年配の人が多く、話がはずみ仕事のことや孫の話題などが次々に出てくる。鉛筆を持ち直す学級生の姿を見ていると、文字を書く緊張が前進にみなぎっているのを感じる。赤丸を一字一字につけて返していると「こぎゃん、いっぱい丸ばもろうて。」ととても喜ばれる。「こげん丸ばもろうたことは、子どもの頃はなかったもんね。」という言葉をかえされる。その姿を見て私は、「差別によって奪われた文字を奪い返す識字運動の重み」「丸をつけられなかった。学校にもあまり行けなかった子どもを放置した学校の差別性」を学校の教職員集団に返している。それは、Bさんの学習権の保障につながる。私は、次年度の担任を変わった。それは、私の心に今でも残る。ここぞ、と言うときに一人を守りきれなかった私。
Bさんとのかかわり、そして識字のかかわりを通して、変わったと思っていた私自身がめくられ、私は「差別する側」の自分自身を問い直す厳しさがたりなかったことが少し「変わった」とか私(たち)は安易につかっていないだろうか?本当にそうなのかと今も問い続けている。差別事象を引き起こさせてしまった私自身の教師としての必要条件として「同和」教育にこだわっているかの有り様を問い直す証として、識字にかかわる。そして、識字を通して差別をなくす運動への連帯のコールの証と考える。私がよりよい教師(人間)となるために識字にかかわりたいと思う。
○おわりに
この糸島大会の1年前、『どつきのあしあと』(1989年4月)」に私は、担当者として「負けません。差別がなくなるまでは、学んだことを実践に生かしていきます。」と書いた。この決意は変わらない。人権「同和」教育が、人権教育となり広がりをつくっている。しかし、その広がりの温度差があり、うすくなってはいないかと思う。
Bさんは、独特の感性を生かし「カレンダーづくり」を行っている。今年は、その収益をフクシマに届けに行った。その姿に学ぶことが多い。
私は、9班の識字で「聞き取り」をしてきた。そのプロセスを通して、私が「被爆二世であること」を積極的に語るようになった。識字を通して自らも語らねばという想いに駆られてからである。
今、「同和」教育へのこだわりがうすれかけてはいないか?と危惧している。その中で識字は、私の「同和」教育へのかかわりの検証軸である。<不可侵 不可被侵>を自戒の言葉として。
(終わり)
識字にかかわるとは? ①
元小学校教諭・元特別支援学級担任
ナガサキ生まれの被爆2世
峰 司郎
○はじめに
識字の担当者となって、約25年。色々な想いがよみがえる。「識字の原点にかえる」と昨年から取り組みがはじまった。私は、A小に来て3年目に識字のレポートを書いた(1990年9月29日29回「福岡県『同和』教育研究大会 糸島 )。児童館で2回、隣保館館長などから、指摘を受けながら作成した。その題は、「識字にかかわるとは・・・?」である。今回、自分の識字を振り返る原点・総括としてそのレポートをもとに自らを振り返る。
長崎の小学校に臨時採用として赴任し1年生担任となった。一人の子が「学校はなぜ勉強するんだろう。弟は、いいな、勉強がなくて。」という作文を書いてきた。私は、この言葉によって「自分はなぜ学んできたのか?」を問いかけられような気がした。高校・大学と前の関門があり、ひとつずつ越えていくる間に見失っていたような気がする。そのときたまたまテレビで「夕やけがうつくしい」の詩を知った。人間としての感情や思想を培うことが学ぶことである。「これからがんばってもっともっと勉強したいです」の思いにうたれた。この詩は、部落解放運動の識字運動の中で生まれたものである。部落解放詩集「太陽は俺たちのものではないのか」を購入した。
福岡に来ていろいろなアルバイトをやった。私の信念は「相対的な教師ではなく、社会的弱者と連帯する絶対的教師をめざす」という観念的だが目標をもっていた。いろいろな本を読む中で、識字は、部落解放、民族解放、被抑圧者の解放(P・フレイレ)という世界中で取り組まれ、公教育の矛盾を鋭くついていることも知った。私は、知識として識字に入っていった。
B小で正式採用になった。そして、C町の識字の担当者になった。「C町の識字にこんね。子どもの実態やら、家庭のことがわかるやろう。」識字にかかわり、それを教育実践に返すなら、校区の識字にかかわり、部落差別と子どもの姿を重ねてみることが必要である。C町の識字に参加することにした。隣保館館長の「きついことかもしれないけど、識字に中途半端にかかわらないでほしい。それは、差別のばらまきになる。識字の中で家庭に入り、どこに部落差別があるのか見抜いてほしい。」毎年言われた言葉なのだが、今も私は心に秘めている。
C町識字にかかわる中で高齢者の方、お母さんたちが地域や職場の中で受けてきた差別体験を聞いた。特に、西鉄の「踏切り向こう」と言うとC町とわかること。さらに、子どもの頃受けてきた差別体験。たまたま、A小で検討課題になっていた遠足の「流れ解散」を話したとき今は亡きYさんが「家を見られなくなかったので遠回りをして帰ったとよ」の話は、学校の中で当たり前のことが、地区の人にとってはどれだけの重みがあるのかを知らされた。差別の現実に学んだ。そして、識字を通して学んだことを実践に生かす重要性を伝えられたと思う。講演や研究大会にも参加し「部落差別」「同和」教育について知識も増えた。子どもたちの姿を生活背景をとらえるために、何度も家庭訪問する。週1回の学級通信を出す。C町の願いを大切にし、被差別地区に出会わせる社会科の実践・教材化に積極的に取り組んだ。自分自身は、学校の積極的に「同和」教育を推進する一員であるつもりであった。当時のA小の教育目標である「差別を見抜き、差別を許さず、差別をなくすこどもを育てる」を具現化しようと必死であった。そして、自分自身C町に行くなかで、「変わった」と信じていた。しかし・・・・。
私は、一応新任でC町の子で「しょうがい」をもたされているBさんの担任となった。彼女の生き様を通して、「部落差別・『しょうがい』者差別」の克服を私自身、そして学校全体が常に問い直されてきた。「二重の差別の現実」の中で闘うUさんを中心にした「共に生き、共に学び、共に育つ」反差別の集団づくりを模索してきた。学習については、「しょうがい」児学級担任や「同和」教育推進教員(「同」推)とも相談し、カリキュラム・教材づくりをしてきた。算数の「10歩で~m」の「長さの単元」の学習の時「車椅子の一回転の長さを測り、それを生かして距離を測る」やり方を子どもたちが考えたときは、すごいと思った。「共に学ぶ」よさだった。「わからん」というBさんの言葉に、「差別」とのかかわりを思い、それに応える教育内容をどう創り出していくか?試行錯誤の実践をしてきた。「みんなと一緒に勉強したいい」というBさんの願い、保護者の熱い思い、京町の中で育まれてきた経過などを聞いてきた。「差別する側」としての自分を自覚させられ、私自身がどちらの側に立つのかを問いかけられてきた。しかし、その中で学級の子どもたちがUさんを排除しようとする差別事象を引き起こした。(続く)