古典落語から学ぶ①
~まねぶ・覚える・覚る~
えェ、お運びでありがたく御礼を申し上げます。おしまいまでどうぞひとつ、ごゆっくりお付き合いを願っております。
わたくしが小学生の頃に、えェ、父親に連れられてね、上野や浅草の寄席へよく通ったもんでございまして、それからというもの、落語にはひどく興味関心を寄せております。
それで、えェ、寄席の帰りなんかに、上野にあるレコード屋へ行ってな、落語のLPを父親におねだりなんかして買ってもらったのを今でも覚えております。今ではCDなんかという便利なものがございますし、落語のCDが安く手に入るもんでからね、えェ、落語の名演集をそろえることができますが、1970・1980代まではまだステレオが普及していた時代でしたから、レコードに針を落として聴く。ちょっと面倒くさいけれど、これはこれでオツなもんでしてな。けれど、レコード盤はガキの頃のわたくしには高価でしたからね、なかなか買うことはできない。それで父親におねだりして、買ってもらうわけなんですがね。
まあ、その中に、えェ、特に気に入ったのが「五代目・古今亭志ん生」の『「替わり目/強情灸』というレコードでして、あれはたしか小学校三年生の頃ですな、そう、当時9歳ですね。えェ、もちろん、その頃は「五代目・古今亭志ん生」の存在をほとんど知らなかったわけですけれども、昔から父親はよく寄席通いをしていたもんですから、落語を詳しく知っていましてね、「うん、志ん生、志ん生の落語はいいよ、あれは独特のしゃべりでね、面白いよ、これにしな」なんてんで、はじめて手にしたのが五代目・志ん生のレコードでしたね。えェ、それで寄席から帰ってすぐにレコードをステレオで聴いてみたんですが、これがすごいのなんのって、志ん生の声に魅了されましてね、えェ、もう、それから落語の虜になっちまったんでございます。
その頃はってぇと、えェ、ちょうど漫才ブームというのが起きてましてな、B&B、ツービート、ザ・ぼんち、なんてぇ人たちが人気があってね、毎日、テレビにかじりついて観ていまして。だからもう、家に帰って宿題なんかしやしねぇってんだから、ひどく学校の先生に怒られたもんでございます。まあ、しかしね、勉強よりもお笑いが好きなんですから、将来は落語家になりてぇ、なんてんで、よく親に言ってあきれられていたもんでございますな。
好きこそものの上手なれ、なんていうことわざがございますが、学校でいっくら勉強をしたってまったく知識が頭に入らねぇのにね、えェ、落語の噺になるってぇと、もう、どんどん言葉が頭に入っちまう。おかしなもんでございますな。それでね、父親に買ってもらった志ん生の落語のレコードをね、何度も何度も、そう、繰り返し聴いてね、あまりにも面白いもんだから、しまいには原稿用紙に志ん生の言葉を速記して、諳んじて覚えちまうってんですから。自分で言うのもなんですがね、これはすごいもんですな。まったくね。こうなってくるってぇと、落語を学ぶということが好きでたまらくなってくるわけですから、勉強嫌いのわたくしもね、わからない言葉があると、こう、広辞苑を開いて調べたりしてね、勉強する。本当に不思議なもんでございますな。
えェ、民俗学者の柳田國男は、「学ぶ」は「まねぶ」からきていると言っています。つまり、先生から教えられたことをまねるわけですな。柳田國男はそれを自分で活用できるようにするのが「覚える」と言っていまして、さらにね、教えられなくても自分で判断できるのが、そう、「覚る」というのでして、この「覚る」というところまでなかなか人は立ち入ることができない。これは難しいですな。
最初に落語を学ぶってぇのは「まねる」からはじまる。好きな落語家の、そう、たとえばね、志ん生の落語、圓生の落語、志ん朝の落語を真似る。ねぇ、そう、とことん、真似るんですな。真似ながら、古典落語を覚えていくのでありましてね。
落語以外の分野では、そう、書道というものがありますな。書道には「臨書」という言葉がございますけれど、わたくしの父親は書道の師範でしたので、書道てぇのはな、よく聴けよ、臨書ができなくちゃ一人前じゃねぇんだ、だからな、自分の書体が確立するてぇのはな、臨書をし続けた果てに生まれるものなんだ、なんてことを繰り返し言っていたもんでございます。もちろん、まねる、あるいは臨書をすることによって字体を「覚える」わけですな。でも、「覚える」って言ったってな、字を覚えるわけでじゃねぇんでね。石川九楊という書家に言わせればね、書の歴史ってのは、人間が自分の言葉をどのような形で文字として定着させるべきかの試行錯誤の歴史だったわけで、つまり、言葉がとりうる姿のあらゆる可能性を追求した足跡なんでございますな。書というのはだからね、えェ、その時代に生きてきた人々のあり方や心情に相応しい書かれ方がされたものなんです。そうしますてぇとね、えェ、書道で臨書するってぇのは、書を通してその時代の雰囲気まで感じ取ることになりますから、書道を甘く考えちゃいけねぇわけでね。なぜそのような姿の書を書いたのか、その方法や考え方を知るっていうことが、つまり、臨書なんですな。
古典落語を学ぶってぇのも、実は、書道の臨書と同じなんじゃねぇかって思うわけなんです。古川周賢という禅僧が落語家の立川談春との対談の中で、お釈迦様の弟子にものが覚えられない周利槃特(しゅりはんどく)の話について面白いことを言っていますな。周利槃特という人はものが覚えられないから、劣等感でショックなんですね。だけど、お釈迦様は「心のちりを払ってほうきで掃け」って言うですね。だから、弟子の周利槃特はひたすら無心で払っているってぇ話なんですな。禅僧の古川周賢は「こんな行は頭の良い人にはできない。それこそ単純なことをひたすらやるなんでできない、頭の良い人は。だから、逆に言うと、ひとつのことにひたすら打ち込む人間には誰にも勝てないんだ」と言うんですね。含蓄のある話ですな。芸を磨くってぇのは、愚直なまでにひたすら打ち込むこと、なんじゃないでしょうかね。 続く (山田 育男)