特定非営利活動法人縁パワー
理事長 山田 育男
公益社団法人福岡県人権研究所の発行する『リベラシオン』第159号に峰司郎さんの「1945年8月9日11時2分ナガサキ~両親の聞き書きから~」という文章が掲載されています。峰さんは「ナガサキに落とされた原子爆弾の被害の事実を記録し継承していくのが被爆2世としての課題である」とし、戦争の事実を知る一つとして「両親の被爆体験」を聞き書きすることをはじめています。
1926(大正15)年11月8日生・当時19歳だった母の和子さんは、8月9日、お兄さんの子どもが亡くなったため、仕事を休んで長崎市夫婦川町56番地の家にいました。お葬式のため、お昼ご飯を作っていた時、飛行機の爆音が聞こえ、「虹のような光が広がった」ので驚き、「顔を引っ込めた」と言います。母の和子さんは原爆投下後に見た光景を次のように語っています。
「西山の方には、浦上から山越えをした人達が血を流しながら、ぞくぞくと連なってきていた。」
「家に戻ると、長崎高商の体育館で負傷者を収容していたので、青年団に招集がかかった。そこで、食事の世話をした。炊事場で炊いて、体育館や講堂の人達に配った。まさに、生き地獄だった。ヤケドで、黄色いシルが出ていた。ウジがわいていた。何とも言えない匂いなので、苦しかった。ケガをした人に悪いと思ったが、タオルで口と鼻を覆って『すみません』と言いながら配った。」
「体育館に行ったところ、背中をべったりやけどしているので、うつ伏せになっている人とかがたくさんいた。そこでも食事を配った。」
「ゴミ収集の車は死んだ人を集めて、空き地のところで焼いていた。家を一歩出ると死体を焼く匂いや骨の匂いがあたりに立ち込めていた。すまないと思いながらも、戦後しばらく、焼き魚が食べきれなかった。」
「8月末、進駐軍が来るということで、叔母の実家の長与町に避難することになった。それで、長崎駅、浦上駅、大橋のところを親戚のおじさんと一緒に行っていた。そのとき、周囲に白骨がごろごろとしていた。そのときは、『恐ろしい』とか『こわい』とか全然思わなかった。道の尾の線路の上に馬が何頭か死んでいた。膨れていた。ウジムシがいっぱいいた。」
母の和子さんの被爆体験は被害を受けられた方々の様子が生々しく語られ、その悲惨さが視覚的にも嗅覚的にも感じられる具体的な話になっています。また、「白骨」が転がっている様子を「恐ろしい」「こわい」と思えないことってどういうことなのか、深く考えさせられます。
一方、1922(大正11)年9月21日生・当時22歳だった父の祥太さんは、8月9日、「出張(外海か琴海方面)があり、大橋までバスに乗る予定」でした。ところが、「上司のDさん」が代わりに行くということになります。父の祥太さんは「Dさん」が自分の身代わりになって亡くなったことを語っています。
「とにかく、ひどかった。言葉では語れない。思い出すとしょうがない。寒気がする。」
「根堀、葉堀、聞くもんじゃなか。」
父の祥太さんの被爆体験は「聞くもんじゃなか」という言葉に集約している気がします。父の祥太さんは戦後以降ずっと「Dさんの死」を思い続けながら、ずっと生きてこられたと思います。どのような「思い」だったでしょうか。父の祥太さんにとって、8月9日は、心に深いトラウマを刻んだ出来事だったのではないでしょうか。これは東日本大震災が多くのトラウマをもたらしたことと似ているのではないかと思うのです。
宮地尚子さんは『震災トラウマと復興ストレス』の中で次のように言っています。
「死者への責任感を強く感じ、サイバーギルト(自分が生き残ったことへの罪悪感)をもつ人も少なくありません。『甥と一緒にいたけど、津波で流された。自分の方が流されればよかった』と、せっかく生き延びた人が、そのことに深い罪悪感を感じ、自分が死んでしまえばよかったと思うのです。」
父の祥太さんが「根堀、葉堀、聞くもんじゃなか」という言葉の裏には、そうしたサイバーギルトを持っているのではないかと推測できます。戦争体験・被爆体験とは、人にそうしたトラウマを残してしまうのではないでしょうか。だとすれば、この「被爆体験の声」を聴く側にいる者として、戦争が人間に引き起こす恐ろしさや悲惨さを、未来の子どもたちには決して体験させてはならないのだと強く感じる次第です。
私の尊敬する哲学者・斎藤慶典先生は『知ること、黙すること、遣り過ごすこと 存在と愛の哲学』の中で、「語ること」について次のように言っています。
「『語ること』は、それを何者かに向けてなすこと以外ではないからである。」
「『語ること』は、かくして(もう一人の私をも含めて)いつもすでに『誰か』に向けてのものであるとすれば、この『誰か』、すなわち『他者』は、『語ること』の不可欠の条件として、語る私に先行していることになる。」
斎藤先生はこの「他者」という概念をレヴィナスの「顔」からヒントを得て、「ひとたび『顔』に出会ってしまったなら、もはや私はいかにしても、この『顔』に応答しないわけにはいかないのである」と言っています。「顔」に対して「応答しないことができない事態」に出会うことは、つまり、「応答=責任は不可避である事態」のことです。こうした「事態」は「倫理」が根本を規定していると付け加えています。わかりやすく言えば、こういうことです。
「仮にあなたが歩いている道の目の前で赤ん坊がオギャーオギャーと泣いていたとしょう。その赤ん坊をあなたは無視して通り過ぎるだろうか。」(斎藤先生の講演)
ここで言う「顔」とは「オギャーオギャーと泣いている赤ん坊」のことです。私たちは目の前の「赤ん坊」に対して、なんらかのかたちで「応答」するというのです。斎藤先生はこのことを「倫理」と呼んでいます。
ところで、私にとって、「被爆者体験の声」とはまさにそうした「事態」のことなのではないかと思うのです。つまり、「被爆者体験の声」を聴いてしまった者は、その「声」に対して、応答する責任があるのではないかと考えるのです。被爆体験の声という「顔」を見た私たちは、再び戦争を起こさない世の中をいかにつくっていくかが、問われているではないでしょうか。それが私たちの「応答=責任」なのだと思うのです。
被爆体験者一人ひとりの声は途轍もない「力」があります。私たちの「応答=責任」は、被爆体験者の声を国民一人ひとりに届かせ、戦争の愚かさや悲惨さを知っていただくこと、そして私たちが何をしたらよいかを熟考し、行動に移していく必要があるのだと思うのです。
峰司郎さんは、「人権社会確立第35回全九州研究集会」における長崎の報告の中で「戦争は最大の差別である」という言葉を引用しています。戦争が人間に引き起こすことがいったいどういう姿なのかをあらためて問いかけていかなければならないと思います。
コメントをお書きください