理事 峰司郎さん
元小学校教諭・元特別支援学級担任
ナガサキ生まれの被爆2世
○はじめに
識字の担当者となって、約25年。色々な想いがよみがえる。「識字の原点にかえる」と昨年から取り組みがはじまった。私は、A小に来て3年目に識字のレポートを書いた(1990年9月29日29回「福岡県『同和』教育研究大会 糸島 )。児童館で2回、隣保館館長などから、指摘を受けながら作成した。その題は、「識字にかかわるとは・・・?」である。今回、自分の識字を振り返る原点・総括としてそのレポートをもとに自らを振り返る。
長崎の小学校に臨時採用として赴任し1年生担任となった。一人の子が「学校はなぜ勉強するんだろう。弟は、いいな、勉強がなくて。」という作文を書いてきた。私は、この言葉によって「自分はなぜ学んできたのか?」を問いかけられような気がした。高校・大学と前の関門があり、ひとつずつ越えていくる間に見失っていたような気がする。そのたきたまたまテレビで「夕やけがうつくしい」の詩を知った。人間としての感情や思想を培うことが学ぶことである。「これからがんばってもっともっと勉強したいです」の思いにうたれた。この詩は、部落解放運動の識字運動の中で生まれたものである。部落解放詩集「太陽は俺たちのものではないのか」を購入した。
福岡に来ていろいろなアルバイトをやった。私の信念は「相対的な教師ではなく、社会的弱者と連帯する絶対的教師をめざす」という観念的だが目標をもっていた。いろいろな本を読む中で、識字は、部落解放、民族解放、被抑圧者の解放(P・フレイレ)という世界中で取り組まれ、公教育の矛盾を鋭くついていることも知った。私は、知識として識字に入っていった。
B小で正式採用になった。そして、C町の識字の担当者になった。「C町の識字にこんね。子どもの実態やら、家庭のことがわかるやろう。」識字にかかわり、それを教育実践に返すなら、校区の識字にかかわり、部落差別と子どもの姿を重ねてみることが必要である。C町の識字に参加することにした。隣保館館長の「きついことかもしれないけど、識字に中途半端にかかわらないでほしい。それは、差別のばらまきになる。識字の中で家庭に入り、どこに部落差別があるのか見抜いてほしい。」毎年言われた言葉なのだが、今も私は心に秘めている。
C町識字にかかわる中で高齢者の方、お母さんたちが地域や職場の中で受けてきた差別体験を聞いた。特に、西鉄の「踏切り向こう」と言うとC町とわかること。さらに、子どもの頃受けてきた差別体験。たまたま、A小で検討課題になっていた遠足の「流れ解散」を話したとき今は亡きYさんが「家を見られなくなかったので遠回りをして帰ったとよ」の話は、学校の中で当たり前のことが、地区の人にとってはどれだけの重みがあるのかを知らされた。差別の現実に学んだ。そして、識字を通して学んだことを実践に生かす重要性を伝えられたと思う。講演や研究大会にも参加し「部落差別」「同和」教育について知識も増えた。子どもたちの姿を生活背景をとらえるために、何度も家庭訪問する。週1回の学級通信を出す。C町の願いを大切にし、被差別地区に出会わせる社会科の実践・教材化に積極的に取り組んだ。自分自身は、学校の積極的に「同和」教育を推進する一員であるつもりであった。当時のA小の教育目標である「差別を見抜き、差別を許さず、差別をなくすこどもを育てる」を具現化しようと必死であった。そして、自分自身C町に行くなかで、「変わった」と信じていた。しかし・・・・。
私は、一応新任でC町の子で「しょうがい」をもたされているBさんの担任となった。彼女の生き様を通して、「部落差別・『しょうがい』者差別」の克服を私自身、そして学校全体が常に問い直されてきた。「二重の差別の現実」の中で闘うUさんを中心にした「共に生き、共に学び、共に育つ」反差別の集団づくりを模索してきた。学習については、「しょうがい」児学級担任や「同和」教育推進教員(「同」推)とも相談し、カリキュラム・教材づくりをしてきた。算数の「10歩で~m」の「長さの単元」の学習の時「車椅子の一回転の長さを測り、それを生かして距離を測る」やり方を子どもたちが考えたときは、すごいと思った。「共に学ぶ」よさだった。「わからん」というBさんの言葉に、「差別」とのかかわりを思い、それに応える教育内容をどう創り出していくか?試行錯誤の実践をしてきた。「みんなと一緒に勉強したいい」というBさんの願い、保護者の熱い思い、京町の中で育まれてきた経過などを聞いてきた。「差別する側」としての自分を自覚させられ、私自身がどちらの側に立つのかを問いかけられてきた。しかし、その中で学級の子どもたちがUさんを排除しようとする差別事象を引き起こした。(続く)