理事 峰司郎さん
元小学校教諭・元特別支援学級担任
ナガサキ生まれの被爆2世
(承前)
「みんなと一緒に勉強したいい」というBさんの願い、保護者の熱い思い、C町の中で育まれてきた経過などを聞いてきた。「差別する側」としての自分を自覚させられ、私自身がどちらの側に立つのかを問いかけられてきた。しかし、その中で学級の子どもたちがBさんを排除しようとする差別事象を引き起こした。「Bさんだけに甘い」「Bさんだけ○○ちゃん」と先生たちは言う。それらのことばや雰囲気によりUさんが学校へ来れない学級をつくってしまった。
このことを通して、いったい自分は識字にかかわる中で、また学校の取り組みの中で何をしてきたのかと考える。被差別の側に学ぶとは、「子どもたちの姿」に学ぶことである。私自身がBさんや学級の子どもたちの言葉、姿を自分自身の照り返しとして考えようとする厳しさは、あったのか?「変わった」と思っていた私。実は「何も変わっていたのではないだろうか?」という問い直しを迫られた私が引き起こした事象である。しかし、私は、冷静に客観的にみれる状態ではなくなった。校長をはじめ全職員がこの重大さを受け止め夜中まで待機してくれた。それは、Bさんの学習権の保障という「同和」教育の原点を地域、校長をリーダーにした「同」推、学校総体が向き合ったことであった。
識字に学び、「同和」教育を原点として私は・・・?
個別の識字で、文字の練習をもっていく。雑談をしながら「呼びかけ文を」読む。班別の集まりで5~6人で文字の練習をする。年配の人が多く、話がはずみ仕事のことや孫の話題などが次々に出てくる。鉛筆を持ち直す学級生の姿を見ていると、文字を書く緊張が前進にみなぎっているのを感じる。赤丸を一字一字につけて返していると「こぎゃん、いっぱい丸ばもろうて。」ととても喜ばれる。「こげん丸ばもろうたことは、子どもの頃はなかったもんね。」という言葉をかえされる。その姿を見て私は、「差別によって奪われた文字を奪い返す識字運動の重み」「丸をつけられなかった。学校にもあまり行けなかった子どもを放置した学校の差別性」を学校の教職員集団に返している。それは、Bさんの学習権の保障につながる。私は、次年度の担任を変わった。それは、私の心に今でも残る。ここぞ、と言うときに一人を守りきれなかった私。
Bさんとのかかわり、そして識字のかかわりを通して、変わったと思っていた私自身がめくられ、私は「差別する側」の自分自身を問い直す厳しさがたりなかったことが少し「変わった」とか私(たち)は安易につかっていないだろうか?本当にそうなのかと今も問い続けている。差別事象を引き起こさせてしまった私自身の教師としての必要条件として「同和」教育にこだわっているかの有り様を問い直す証として、識字にかかわる。そして、識字を通して差別をなくす運動への連帯のコールの証と考える。私がよりよい教師(人間)となるために識字にかかわりたいと思う。
○おわりに
この糸島大会の1年前、『どつきのあしあと』(1989年4月)」に私は、担当者として「負けません。差別がなくなるまでは、学んだことを実践に生かしていきます。」と書いた。この決意は変わらない。人権「同和」教育が、人権教育となり広がりをつくっている。しかし、その広がりの温度差があり、うすくなってはいないかと思う。
Bさんは、独特の感性を生かし「カレンダーづくり」を行っている。今年は、その収益をフクシマに届けに行った。その姿に学ぶことが多い。
私は、9班の識字で「聞き取り」をしてきた。そのプロセスを通して、私が「被爆二世であること」を積極的に語るようになった。識字を通して自らも語らねばという想いに駆られてからである。
今、「同和」教育へのこだわりがうすれかけてはいないか?と危惧している。その中で識字は、私の「同和」教育へのかかわりの検証軸である。<不可侵 不可被侵>を自戒の言葉として。 (終わり)