○井沢先生の論文を深めていくことの大切さ
東洋大学社会学部教授・井沢泰樹先生の「在日コリアンにおける精神障害と社会環境的要因 ~ある在日2世のライフヒストリーから~」という非常に価値のある論文を読む機会に恵まれ、多くの方々に知っていただきたく、筆を執ります。
井沢先生の論文内容は、私たちが今までかかわってきた被差別部落出身者、生活困窮者、セクシュアル・マイノリティの方、障がい者等、差別・偏見で悩んでいる方々等が抱える背景と通底する内容が多々あり、井沢先生の論文を深め、学び取っていくことは私たちにとって非常に大きいと考えています。
○在日コリアンと精神障害に関する先行研究を根拠に
井沢先生の論文は、在日コリアン2世の男性を対象としてライフヒストリー法によるインタビュー調査を丁寧に行い、男性の生育環境を含め、在日コリアンとしての社会的・歴史的・文化的・経済的位置が、精神障害の発症に直接的間接的にどう影響を与えたかを明らかにしています(井沢論文において「在日コリアン」とは朝鮮半島にルーツを持ち、概ね1910~1945年前後に渡航した者およびその子孫で、韓国籍者、朝鮮籍者、日本国籍者を含む方々です)。
論文の調査対象者は、調査時点で30代後半だった韓国籍の男性で、20代後半に統合失調症を発症します。過去3回(それぞれ約1年間)の入院経験を持つ在日コリアン2世です。論文では「A氏」と表記。
Aさんは在日コリアン民族団体に参加して活動しており、「民族」と「精神障害」という複数の属性を併せ持つ存在であるとし、そのことに起因する葛藤やジレンマを初対面時から持っていたと井沢先生は書いています。そこで、Aさんが精神障害を負うに至る背景に「在日コリアンであるという立場性」がどのように影響しているかということを明らかにするために、井沢先生はAさんに調査の依頼をします。井沢先生は依頼する根拠となる先行研究を整理されています。
井沢先生は調査を行うにあたって、「在日コリアンと精神障害に関する先行研究」についてふれています。
① 大橋一恵さん「文化的辺縁性と臨床社会病理」
「在日朝鮮人」は1980年当時において「日本最大のマイノリティグループ」であり、「日本社会における中心性と辺縁性を同時に内面化しつつ生きざるを得ないものとしての『境界人』」としてその内面的把握を試みる。
② 金長壽さん「在日コリアンのアイデンティティと精神障害 特に在日症候群について」
在日コリアンの場合、日本社会でのマイノリティという立場からくるアイデンティティ危機に加え、在日コリアン社会における韓国・朝鮮的文化と日本文化との摩擦が精神障害の発生や病像、さらに経過にも大きく影響すると考えられ、「在日」の場合は個人の遺伝的要因もだけなく、社会的、文化的、家庭的要因などの環境的要因の比重が大きい点を指摘した。
③ 黒川洋治さん『在日朝鮮・韓国人と日本の精神医療』(批評社)
精神科医の立場から「日常の精神医療の場で、在日朝鮮・韓国人と接することは稀なことではない」としなががら、「在日朝鮮・韓国人と精神障害者の問題に取り組んだ論文はほとんど存在しない」とし、その背景として、①「脱亜入欧」の明治イデオロギーが作り出した東洋蔑視の根深い差別感が存在すること、②在日朝鮮・韓国人が「外国人」として意識されないこと、③「差別・偏見」などの問題をあまりにも政治的に考えるため、これをタブー視し、「聖域」ができあがっていること、④伝統的精神医学に基づく疾病観の支配で、精神障害における社会的要因の軽視が存在すること、等をあげています。
黒川さんは「在日朝鮮・韓国人」と精神障がいの問題との関係についての論文がほとんどないと述べていますが、その意味において、井沢先生の論文はその問題に踏み込んで取り上げ、当事者の声を丁寧に聴き取りをした非常に価値のある論文だと言えるでしょう。
○Aさんの実態について
Aさんは障害者手帳3級。2年前から障害者枠で一般企業の経理補助の業務をしています。Aさんは睡眠導入剤がないと眠れない状況です。Aさんが勤務する会社は調子が悪い場合は休ませてもらったり、遅刻や早退もかなり柔軟に対応してくれたりと、Aさんに対する障がいの理解はある会社です。
Aさんがはじめて入院したきっかけは、韓国に母親といっしょに親戚をたずねる旅行に行った時、母親が叔母に「A氏に1000万円の生命保険をかけている」という話をし、叔母が母親に「日本に帰ってA氏に毒を盛って殺せ」と言ったことを聞いたことからでした。この話を聞いてから、Aさんは人間不信に陥ります。このことが頭から離れなくなり、うつ状態になります。そして、精神科に1年間入院します。3度目の入院の20代後半の時、自分の噂話や悪口等の幻聴が聞こえるようになったと言います。統合失調症の診断を受け、1年間入院します。
○Aさんの家庭環境について
Aさんの父親は1923年韓国の慶尚南道の生まれで、1941年(18歳)に「徴用」により日本に来ました。三池炭鉱で労働に携わり、山口県、中部地方と変わり、最終的には中部地方のトンネル工事に携わり、終戦をむかえます。現場の仕事はとても過酷であり、トンネル工事の落盤事故にあって頭を負傷したにもかかわらず、病院に連れていってもらえない状況で、自分でなおしたと言います。Aさんが10代半ばに父親は肝臓ガンで亡くっています。
Aの両親は、父親が51歳、母親が35歳の時に再婚同士の結婚。父親はすでに4人の娘、母親は娘1人、息子1人がいたと言います。両親のあいだに姉とAさんが生まれます。戦後、父親は廃品回収業に携わった後、運送会社を経営。ほとんど学校教育を受けてこなかったため、文字の読み書きができませんでした。その後、職員が資金を持ち逃げして、会社は倒産。父親は戦争中に身に付けた技術を生かして土木関係の仕事に就くが、この頃から「アルコールが手放せない状態」なっていきます。Aさんは父親について次のように語っています。
「やっぱり徴用されて、不当な扱いを受けて、賃金もろくに支払われず、もう死ぬ思いで働かされて、生き埋めになったり、事故に遭ったりしてもなんの補償もなくって、そのことに対しての怒りとか悔しさというのを、うちの父親はぶつける場所がなかったんですね、どこにも。(略)どこにぶつけたかというと、家族ですよ。家庭の中で、ぼくや姉や母親に対して、お酒で、何ていうんですかね、癒されない心の痛みを埋めようとしながら、家族に対してそういうものを暴力とかでぶつけるのを繰り返していて。」
「すごい家庭の中がぴりぴりしているわけですよ、空気が。そのせいで自由がないわけですよ、自分自身が。という意味で、自発的な行動ができないっていう状況が生まれているってことで、そのぴりぴりした空気はどこからくるかっていうと、やっぱり父親からうけた心の傷とか、そういう怒りとかっていう感情からきているわけなんですよ。いつ機嫌が悪くなるかわからないわけですよ」
Aさんの父親はアルコール依存だけでなく、ギャンブル依存にも陥っていたそうです。
母親は朝鮮半島生まれで、家は貧しく、封建的な考え方が強かったため、「女は家のことをやっていればいい」と言われ、学校に行ったり行かなかったりし、韓国語も日本語も文字がわからないと言います。母親は父親との結婚を悔やんでいたということをAさんにこぼしています。Aさんは母親に対して「意志の乏しさと無責任さを感じる」と言っています。また、母親は「あなたは大人なんだからしっかりしてよ」というのと同時に、「あなたはいつまでも子どもでいなさい」と言い、Aさんはダブルバインドの状態に陥り、心が引き裂かれると言います。(続く)