認知症高齢者グループホームには、介護の手を多く必要とする方から、介護の手をあまり必要とされない方まで、様々な方が入居されています。
私たち職員は依怙贔屓するつもりはないのですが、先日こんなことがありました。介護の手を多く要する女性入居者Aさんをトイレへ誘導して、用を済ませるお手伝いしてリビングへ戻る途中に、転倒防止のために傍らに寄り添って廊下を歩いていると、女性入居者Bさんが、[あー美人は、いーねぇー優しくしてもらえて、羨ましいねぇー。私はブスだから誰にも優しくしてもらえないよぉー。]と私たちに向かって叫んでおられました。私は、[Aさんは、ご自分で用が済ませられないのですよ。足腰が弱っておられるので一緒に歩いているのですよ。]と応えると、Bさんは、[あー嫌だ、嫌だ、長生きはしたくない、早くお迎えに来てほしいよ。]と嫌味たっぷり仰られました。Bさんは要介護度が低く、ほとんど自立されている方で、また独特な個性の持ち主です。ご自分にブスコバンという薬が内科医から処方された時に、[私がブスだから医者がブスコバンを出したんだ!]と大騒ぎされたことがあります。Bさんは日頃から、職員がAさんに介護の手を多くかけているのをご覧になっているので、大変な不平等を感じておられるのです。故に、ことある度にAさんを口撃されます。
グループホームでは、介護の手を要する度合いが様々な方が一緒に生活されています。職員の人数が限られているので、どうしても介護の手を要する方への介護が優先されてしまいます。しかし、この事に不平等を感じておられる方も確実に存在するのです。[よい子は、放っておかれる]の法則は、高齢者グループホームにも当てはまります。
平等について、私なりの考え方は、[二人の子どもが居ます。一人は飴玉一つで我慢できる子、一人は飴玉三つで我慢できる子。ここに飴玉が四つあります。二人の子どもに飴玉を平等に配りなさい。]の問いに対して[飴玉一つで我慢できる子には一つ。飴玉三つで我慢できる子には三つ]と答えます。これが、私なりの平等です。飴玉が六つあれば良いのですが、パイは限られているので、与えられたパイで解決しなければなりません。
しかし、この原則をグループホームで展開すると、Bさんのように不平等に感じる方もおられるのです。
私はこの原則を、ベストではないけどベターと信じていますが、それはグループホーム内で、入居者さんと同じ土俵に立ち位置を置かない介護者の立場であるからで、私が介護を受ける側に立ったら、やっぱりBさんと同じように不平等を感じるでしょう。この様に平等とはとても難しい問題です。
元々[平等]とは、仏教用語で[物事のあり方が真理の立場から見ればすべて同一であること]からきているようです。平等院鳳凰堂は有名ですね。哲学用語の[equality ]を日本語に翻訳する時に、啓蒙思想運動を経験せず封建体制が長く続いた後の明治初期に、直ぐには言葉が見つからなかったと推測されます。故に、仏教用語の中から[平等]を見つけて当てはめたのではないか?と推測します。当時、西洋哲学用語を日本語に翻訳することは大変な作業だったと思います。
今日、私たちが、現世において平等を真に獲得できていないのは、[極楽浄土]のような形而上的な概念を意味する言葉だからかもしれません。善人も悪人も、貧者も富者も仏になれば皆同じ。真理の立場から見ればすべて同一。だからこそ、現世においても尊ぶべき指針であると考えます。万人が満足できる状態は獲得できなくても、格差を減らそうと努力する姿勢が大切なことと思います。
私は、週に一度Bさんを近くのスーパーまで買い物にお誘いします。Bさんは足腰が不自由な訳ではないのですが、外出の時には車イスに乗って戴きます。天気の良い日に爽やかな風を受けながら車イスに座っているBさんの表情は、仏様のように穏やかです。私は、そんなBさんとの時間をこれからも大切にしてゆきたいと思います。