わが家には、五歳になる雄猫が一匹います。鯖虎のスコティッシュフォールドで佐藤家のヒエラルキーの頂点に座しております。外敵のいない冷暖房完備の部屋で、食事とオヤツを保障され、病気になれば医者に診てもらい、[ニャー]と一声鳴けば、人間様は自らソファーから身を引き、その場を我がものとする小皇帝です。
しかし、彼は外の世界を知りません。彼の瞳に映る窓の外の景色は、彼の視線の高さから見える範囲のみが、彼の知り得る全世界です。たまに、飛来するカラスの鳴き声に怯え、上空を飛ぶヘリコプターに向かって[ケッケッケッ]と吠えます。彼には、自分からのカラスとヘリコプターの距離は同等なのです。
果たして、彼は自由なのでしょうか?それとも囚われ身なのでしょうか?
そして、私たち人もまた、本当に自由なのでしょうか?
人権、平等、自由は、近代史から人々への贈り物といわれます。しかし、平等と自由はそれぞれを突き詰めると両立し得ません。自由競争により、得る者と得られない者が現れて格差が生じます。所得の再分配機能により格差是正を試みても焼石に水で、新自由主義経済は、さらなる貧富の格差を拡大させ、人々の心は絶望により深く傷つき、憎しみと怒りに浸食されています。その結果、世界中で暴力により人権が凌辱され、報復の連鎖が止まりません。これは、自由による、平等と人権の破壊であると考えます。今や、近代史からの三つの贈り物は相姦関係にあるとさえいえるのではないでしょうか?
今、自由について問いを発することが求められています。
福沢諭吉が、[liberty ]を日本語翻訳する時、候補になった言葉は自由の他に、自在、楽、解放などがありました。封建体制の終わったばかりの明治初期に、[liberty ]の日本語翻訳は大変難しかったと推測されます。僭越ながら私は、[liberty ]を[自由]と翻訳したのは誤りではなかったのか?と考えます。過去の文献に自由とは[我儘放蕩]を意味する言葉として載っています。これはむしろ[liberty ]ではなく[free ]の意味に近いです。安土桃山時代の楽市楽座は規制緩和、taxfreeは免税、freewayは速度規制無制限、これらの共通点は規制からの解放であるといえます。しかし、規制が無いと同時に保護も無いのでハイリスク ハイリターンが原則です。また、アドバンテージを有する(得る者)に有利な世界で、得られない者はさらに得られない状態に固定されます。規制とは本来、強者の力を抑制し弱者の保護を目的とするはずです。しかし、規制を排した自由競争は、[神の見えざる手により]富が適切に分配されるとの強者の論理が暴走した結果、世界は一握りの得る者と、大多数の得られない者とに二分化されました。
人権思想に立脚した[liberty ]とは如何なるものでしょうか?人々は近代史から三つの贈り物を受けましたが、最大の贈り物は、[衣食住の飛躍的な向上]です。人は、衣食足りて礼節を知る存在です。しかし、自由競争の結果得られない者は、当然衣食足りない存在で社会不安定要因となります。社会不安定要因が増加すれば、得る者や得られない者に関係無く、全ての人が高いリスクを被ることになります。私はこれまで、[人権思想に立脚した、平等主義と自由主義とのバランス]が大切と考えていましたが、現実は、[得る者が慈しみと優しさを持って、人権と平等を支える前提無くして、人権と平等は保障されない]ことに気づきました。と同時に、得る者と得られない者とに分けるのではなく、全ての人が他者の生存権を尊ぶこと、他者の気持ちを尊ぶこと、他者を憂える気持ちを抱くことが大切と考えるようになりました。具体的には、自分が欲しいもの、愛するもの、悲しむことを、よく見極めて、人との関係性の中で、相互に尊ぶ姿勢こそが肝心と考えます。
人を慈しむ気持ち、人を憂えると書いて優しさ、慈と優。私は、[liberty
]の日本語翻訳を[慈優]と提案します。慈優競争、新慈優主義経済、慈優民権運動、慈優恋愛、慈優の女神、・・不慈優・・・ああ正にその人への周囲からの不慈優な状態です。
[慈優は21世紀から人々への贈り物]と後の時代の歴史家に評されれば素敵ですね。
追伸 わが家の猫君は、妻と私の慈優に包まれ、妻と私は、猫君の慈優に癒されてます。私たちは、慈優です。