この夏、実家の母が入院しました。実家には、右麻痺左目失明身障1級79歳の父が残され、私は母が入院中の間は有料ホームのショートステイを利用するように勧めましたが、父はショートステイを拒み、単身独居中の介護保険サービスも拒みました。父は、[独りでなんとかやれると思う]と言い、本来ならば強引にでもショートステイに預けるべきでしたが、私は情けないことに、[当事者の自己決定とエンパワーメントを保障する]という教科書通りの対応をとるしかありませんでした。かくして父の隻腕隻眼の単身独居生活が幕をあけました。
父は、6年前に脳梗塞で倒れて以来、努力してなんでもできるようになりました。父のイメージは、元読売巨人軍長嶋茂雄氏の現在の姿と重なります。午前中と午後にそれぞれ1時間づつ、杖を用いないでの散歩を日々の日課として、規則正しい生活をしています。できないことは、炊事、電子レンジを使いこなすこと、洗濯機のスイッチを入れること、風呂場の掃除です。洗濯の終わった洗濯物は自分で干します。炊飯器や電子レンジはスイッチ類が多いために操作できないのです。父の風呂の沸かし方は、[自動]ではなく、一度浴槽に水を貯めてから、[追い焚き]します。つまり、昔ながらの[浴槽に水を貯めて沸かす]やり方なのです。
今日、私たちは高度に進化した文明の利器に囲まれて生活してます。情報はインターネットで一元化され、家電は人を家事労働から解放し快適な生活空間を提供し、自動車にはナビが付いてほぼ間違えることなく目的地へ着けます。しかし裏を返せば、莫大な情報に曝され正誤正邪の判別に戸惑い、停電になれば成す術を知らず、地図を読む能力を失い東西南北も判らなくなりました。文明社会の成熟度と個人の成熟度は反比例します。私たちは、便利さと引き換えに大切なものを失ったのではないでしょうか?
技術革新とは、[短所を長所に変えること]と考えます。しかし、[道具の長所をより便利にすることに特化した]ために、道具を使いこなせないと不利を被り、使いこなせても道具を失うと成す術を無くす極端な事象が顕在化しました。公衆電話が見あたらなくて高齢者が困ったり、スマホを無くしてパニックになるのがよい例です。
高齢者に優しくない道具は、実は、全ての人に優しくないのです。福祉的な表現をすれば[便利さに特化した道具は、あらゆる人のエンパワーメントを劣化させている]のです。私たちは、道具の動力源である電気を失った時、ただ狼狽えるばかりでしょう。
父の父、つまり祖父は、僕が子供の頃田舎に遊びゆくと、薪で火を炊きお風呂を沸かしてくれました。それは、祖父の誇りであり、威厳でありました。祖母は井戸で水を汲み上げ、竃で炊事をしていました。洗濯は洗濯機を使ってましたが、スイッチはダイヤル式の簡素なもので操作に迷うことはありませんでした。電話もテレビのチャンネルも家電のタイマーもダイヤル式でした。自分が若い頃に使いこなした道具さえあれば、年老いても生活に不自由は無かったのです。
ダイヤルは視覚的に人に優しいスイッチです。機械のメーター類も回転式、時計もアナログ式が主流でした。針や目盛りの角度で量を認識するアナログ式は大変優れた仕組みです。子供から高齢者まで皆が使いこなせました。本当に人に優しい道具とは、便利さに特化して限られた人にしか使いこなせないものではなく、誰にでも使いこなせるものと考えます。高齢者や障がい者に優しい道具は、全ての人に優しいと信じます。
父は、今日も杖を持たずに真っ白なベースボールキャップを被って、1時間の散歩に出掛けます。私は、[辛くないのか?]尋ねました。すると父は、[辛いよ。でも、負けるものかと、頑張っている。]と応えました。
この夏、満身創痍となりながらも、便利さに流されずに独り闘っている父から、大切なことを教わりました。