ハンセン病の戦後 ~人間回復への道~
2015年、Eテレ「ハートネットTV」は1年を通して「福祉の世界」を振り返るため、過去の歴史を紐解き未来のヒントを探る「シリーズ戦後70年」を放映。第5回目は「ハンセン病の戦後~人間回復への道~」(6月12日)でした。以下に整理します。
ハンセン病は治る病気となった後も戦後50年におよんで続いた隔離政策。ハンセン病患者の皆さんは激しい差別や偏見に曝されながら、療養所で一生を終えることを余儀なくされました。番組では、元ハンセン病患者で、元患者の人権回復運動に取り組んできた森元美代治さんをゲストに話が進められました。森元さんは14歳でハンセン病を発症。軽い症状であったにもかかわらず、親元から引き離されて療養所へ収容されました。
正しい知識がないゆえに
1931年の「らい予防法」によってハンセン病患者は強制的に全員が隔離されました。1940年代、アメリカで特効薬「プロミン」が開発され、ハンセン病は治るようになりましたが、日本は隔離政策を変えませんでした。森元さんは「らい予防法には対処する規定がない。隔離されたらそれっきり。一生、療養所にいなければならない。普通、病気が治ったら病院を退所しますね、でもハンセン病にはそれがない。憲法で保障する『自由』を奪っている。学問の自由や職業選択の自由もダメ。こんなハンセン病だったら死んだ方がマシだ。何度思い立ったかわからない」と言います。
こうした隔離政策は社会の偏見をあおることにもなり、戦前、国は「ハンセン病は国力を弱める」とし、その撲滅を掲げ、患者を見つけたら通報されました。それが「無癩県運動」です。校門に保護者がビラを配って、患者が学校に登校したら反対運動が起こったほど。恐怖感が差別を助長させていきました。これは正しい知識がないゆえに起きていることです。森元さんは「本人がハンセン病じゃないのに、家族がなったら離婚する」「遺伝病だと誤解されたり、『らいの血統』だと言われたりしました」と言います。
高校卒業後、森元さんは予備校に通って東京の大学に合格。しかし、療養所の医師に「らい病患者が大学に行ってどうする」と言われ、許可されませんでした。そこで、療養所を脱出し、病を隠して下宿しながら大学に通います。
非人間的なやり方だ、許されることではない
1970年代、森元さんは病が再発し、多摩全生園に戻ります。園で出会った美恵子さんと結婚。2人は「子どもがほしい、家族がほしい」という夢を持ちますが、不良な子孫の出生を防止する「優生保護法」を根拠に「患者は子どもをもうけるものではない」とされていました。また、結婚する条件は「断種手術」をすることでした。「これは非人間的なやり方だ、許されることではない」と森元さんは言います。
らい予防法を廃止すべきだ
1993年、森元さんは自治会長になり、1994年の全患協臨時支部長会議に参加。そこで、国のハンセン病患者の方針に影響を持っていた厚生官僚・大谷藤郎さん(元厚生省医務局長)は「隔離は人権上問題だ。らい予防法を廃止すべきだ」と発言。森元さんは「予防法がなくなることは当事者や家族も喜ぶにちがいない」という思いから運動に取り組んでいきます。森元さんたちは政府に対して「隔離政策の過ち」を要求していきます。1996年、らい予防法は廃止。戦後50年にわたった隔離政策は終わりました。
予防法廃止を勝ち取った森元さんはあるとき、姉からの手紙が届きます。そこには、「私の兄弟と思わないでください。一切お断りします」と書かれており、ハンセン病の家族がいることを周囲に知られたくないことが綴られていました。森元さんは、法律が変わっても根強い偏見は変わっていないと感じます。
人間回復をめざして
森元さんは国の謝罪を求める原告として参加することに決め、「裁判を通して社会の偏見を解決したい、人間回復をめざしたい」という気持ちになっていきました。
2001年、熊本地方裁判所では国の責任を認める判決が言い渡され、その後、国は「控訴断念」の方針を固めました。勝利の日、原告側の方は「ようやく人間になりました」と言われていたのがとても心に残っています。
森元さんは「ハンセン病問題は、まだ終わっていない」と語り、番組が終わりました。
エンパワーメントの大切さ
ハンセン病患者の闘いについて考えるとき、「エンパワーメント」の考え方を思い起こさせます。森元さんの人権回復運動の取り組みは、まさに「エンパワーメント」を獲得した闘いだったのだと思います。
当法人の名称の「縁パワー」の由来は「エンパワーメント」から来ています。ここでは「エンパワーメント」の定義を「脊髄損傷患者のための社会参加ガイドブック」から援用します。エンパワーメントとは「人々が本来持っている生きる力や主体性を取り戻し、できる限り自立し、自分たちの問題を自分たちで解決していける力を高めていこうという考え方」です。
エンパワーメントには、4つの次元があると言います。
1つめは「自己信頼」です。障がいを負ってしまった自分に再び自信を持ち、自分を信頼できる存在であると感じられるようになること。そのためには、自分の気持ちを受け止め、共感してもらい、わかってもらえたと感じることが大切だと言っています。
2つめは「相互理解」です。同じような問題を抱えた人々との出会いや語らいの大切さです。問題を持っているのは自分だけではないことや、お互いに助け合えることを知ることになります。
3つめは「権利の発見と主張」です。自分の置かれている状況と周囲の環境との関係や、社会、組織との関係を考え、そこで侵害されている自分の権利に気づきも主張すること。
4つめは「社会への働きかけ」です。同じような権利侵害や差別を受けている人々の権利を守るために、仲間や考えを同じくする人々と協力して社会に働きかけることの大切さです。エンパワーメントは社会的弱者という立場から自分らしさを取り戻し、自分自身を解放し、人間回復をめざしていく考え方です。
ハンセン病患者は元厚生官僚の大谷藤郎さんにはじめて受け止められ、共感してもらえる方に出会い(自己信頼)、ハンセン病患者同士との出会いや語らい(相互支援)、政府に隔離政策の不当性を訴え(権利の発見と主張)、ハンセン病患者同士や考えを同じくする人々と協力して社会に働きかけ、らい予防法を廃止させ、裁判を通して国の責任を認めさせた(社会への働きかけ)、のです。
被差別部落の人々との姿と重ね合わせながら
公益社団法人福岡県人権研究所が発行している機関誌『リベラシオン』第159号には、林力さんの『父ありてこそ-ハンセン病の父を語る(1)』が連載されています。林力さんの父親はハンセン病患者で、鹿児島県鹿屋市の「国立星塚敬愛園」に収容された方です。当初、林力さんは父親がハンセン病患者であることを隠して生活をしていたのですが、1956年以来、林力さんは「同和教育運動」を通じて多くの被差別部落の方々と接し、差別や偏見に曝されながら、しかしめげずに闘っている人々と出会う中で、「必然的に、父を隠すことの恥ずかしさ」を悟ります。「ハンセン病患者の父」と「被差別部落大衆」との姿を重ね合わせ、「自分の娘」や「同じ『同和』教育の道を歩む仲間達」に父親のことを告白していきます。元厚生官僚の大谷藤郎さんは林力さんを「ハンセン病運動の私が頼りとする同志」と言っています。林力さんが語りかけてくる言葉も「エンパワーメント」であり、私たち法人の取り組みの豊かな示唆を与えてくれます。
(理事長 山田 育男)