昨今、メディアを騒がせている、力士暴行事件について、私見を語りたいと思います。私は、過去四半世紀の角界を総括しなければ、理解できないと事象と考えます。
客観的な事実は、[酒の席で先輩が後輩を暴行し、傷害を負わせた事件]です。しかし、事件の加害者が横綱力士、被害者が格下力士で、その場に複数のモンゴル人力士が同席していたこと。事件の処理に、被害者力士所属相撲部屋の貴乃花親方が、日本相撲協会理事の重責にありながら、独自の判断で司法機関を介入させ、被害者力士を匿い、日本相撲協会の事件調査協力要請に応じないこと。加害者横綱が引責引退するに至り、角界へ影響が拡散し続け、収拾の目処が着かない事態となっています。年明けには、貴乃花親方に、理事の職務を全うしなかった責任の処分内容が決し、日本相撲協会と貴乃花親方との全面戦争の様相を呈してます。
日本相撲協会理事として、日本相撲協会の事件調査要請に応じなかった貴乃花親方の姿勢は、確かに責めを負うべきです。しかし、頑ななまでに日本相撲協会への不信を貫いた理由は、相撲協会の推進する暴力撲滅運動への疑問だけでは無く、二者の相撲に対する哲学の差異であると思います。
過去四半世紀に渡り、外国人力士の数か増えました。プロスポーツの世界で、外国人選手が増えるのは当然のことです。しかし、相撲と他のプロスポーツとは同列に扱われるものでしょうか?
相撲は国技であり、神事であり、興行であります。難しいのは、神事であると同時に見世物であることです。見世物でありながら、力士は特に横綱は神格化される対象でもあるのです。審判である行司は帯刀が許され、土俵には神々への供物が埋められており神聖な場所であります。その神聖な場所で、横綱に相応しくない振る舞い、例えば勝負の着いた相手を足蹴にするような力士らに、貴乃花親方は幾度となく怒りを禁じ得なかったのであろうと推測します。
外国人力士が増える一方で、日本人力士が増えません。正確には、日本人力士が増えないから外国から人を招いて力士を育成しているのです。モンゴルにはモンゴル相撲があり、立身出世の為に日本の相撲部屋へ入門して、関取を目指そうとする少年が存在するからです。日本相撲協会は歴史ある大相撲を未来へ継続するために、あらゆる努力をしているのです。
貴乃花親方のベクトルは、[相撲とは、神聖な神事であり、力士の最高位である横綱は神格化された存在]でなければならず、日本相撲協会のベクトルは、[相撲とは、未来へ継続できる国技であり、人材を育成するシステムを構築し、力士はプロスポーツ選手として扱う]ものです。二者のベクトルの差異が四半世紀の間に隔絶してしまったのが、今回の事件の核心であると考えます。
貴乃花親方は、角界改革派ではなく復古主義的な保守であると捉えるべきです。休日にジャージ姿で街を闊歩するような力士には、土俵に上がる資格は無いと感じていたかもしれません。しかし仮に、貴乃花親方が日本相撲協会の理事長になり、復古主義を目指しても、既にこの国では難しいと思います。なぜなら、相撲部屋へ入門して、立身出世を目指す日本の少年の発掘は絶望的と思えるからです。
私の好きな映画、トム クルーズ、渡辺謙 主演の[ラスト サムライ]で、渡辺謙が西郷隆盛をモチーフとした役[勝元]を演じました。廃刀令の御代に、明治天皇から賜った武士の魂である刀を、[陛下に賜ったこの太刀を、陛下が返上せよと仰せならば、勝元、お返し致します。]と、陛下の真意を問う場面があります。クライマックスで、勝元は騎馬武者隊を率いて武士の魂である刀を携え、明治政府軍の機関銃座へ突撃して、壮絶な最後を遂げます。近代兵器の前では、槍刀の時代は終わったのです。
ラストシーンで、亡き勝元の名誉を明治天皇自らが回復します。近代国家建設に於ても、武士が命を賭けて護ろうとした志の継承を誓うのです。私の中では、勝元と貴乃花親方が重なります。
貴乃花関は真に、[ラスト ヨコヅナ]です。