父親の戦時体験 ~静岡県浜松市の空襲~ 第1回
理事長 山田 育男
これから語りはじめる内容は、私の父親が第二次世界大戦中に体験した「戦時体験談」です。私の父親は、ボランティア団体の副会長を務めていますが、今までにも小学校の「総合的な学習の時間」で(小学6年生の)子どもたちに「戦時体験」を語ってきました。小学6年生は社会科「日本の歴史」の中で「第二次世界大戦」を学びますが、戦後74年を経て、「真の戦時体験」の話を聴く機会がなくなっていること、戦争の怖さや悲しさ、つらさなどを子どもたちに知ってもらい、子どもたちの心の中に少しでも残すこと、そして、これからの未来につながる子どもたちに「戦争のない平和な日本」を心から祈りたいという思いや願いから企画されました。
今回、紹介させていただく内容は、2018年11月30日(金)にある小学校で私の父親が語った「戦時体験談」です。録音は残されていませんが、当日、父親が小学校で話した際の原稿が手元にありますので、その原稿を参考に私が文章にまとめたものです。現在、私の父親は81歳です。子どもたちに何か伝えたいという強い思いがあったのだと思います。貴重な原稿(写し)を譲り受けましたので、父親の承諾を得て、今回、「父親の戦時体験」を公開することにしました。子どもたちだけでなく、世代を超えて、しっかりと受け止めていかなければならないと思っています。
ただいま紹介をいただきました山田です。よろしくお願いします。
「静岡県浜松市における戦時体験」というテーマをいただきました。あれから振り返れば、73年になります。感慨無量です。
当時、私が住んでいた場所は「静岡県浜松市追分町」というところでした。東京都から西に新幹線で2時間くらいのところです。風光明媚なところです。かつてNHK大河ドラマ「直虎」の舞台となったところですね。
私が小学校に入学したのは、昭和18年4月です。浜松市追分国民学校と言い、当時の教科書は「国定教科書」と言いまして、南は九州から、北は北海道まで、国が決めた教科書を使いました。太平洋戦争が昭和16年12月10日にはじまりました。昭和19年頃から日本国内は生きるために欠かせない食糧や、その他の日常品が不足し、店先には品物がほとんどなくなり、その頃から国による方針で統制がひかれ、配給制になり、キップをもっていかないと物が得ることができませんでした。お米・みそ・醬油・塩・マッチ・タバコなど、10品目以上あったと思います。また、なかでは、お米は米穀通帳と言いまして、それを持っていて移動もできなかったのです。
私の父親は職業軍人で、戦争に行っていましたから、母親は兄、私と妹2人を抱え、大変な思いをし、とても配給だけでは食べ物が足りなくて、町から離れた農家に食糧を買い出しに行きましたが、お金があっても手に入らず、母の箪笥の中から着物とか洋服を持って物々交換しなければならなく、母親は自分は食べなくても、子どもたちに食べさせて、私たちを守ってくれました。
続く