父親の戦時体験 ~静岡県浜松市の空襲~ 第2回
理事長 山田 育男
当時の学校の様子は、学校を行きますと、朝礼で校長先生が「日本は絶対に戦争に勝ちます」と言ってはげまし、それを信じて「負けられません、勝つまでは」の合言葉でみんな頑張りました。だんだん戦争が激しくなり、本土に敵の飛行機が来るようになりました。
第一回目の浜松空襲は、昭和19年12月13日です。その日は、B29が奇襲し、1万メートル上空より焼夷弾600発投下し、多くの家族、人命を失いました。浜松は数多くの軍事工場と軍事施設があり、それをめがけてやって来たのです。その工場は、現在のヤマハや、駐屯飛行機・航空隊、通信隊、陸軍中野学校など、多くの舞台が駐屯していました。
空襲回数は27回に及び、昭和20年1月19日は大型爆弾、投下カンが1日に3回も空襲。昭和20年4月30日はB29・70機が奇襲し、1000発の焼夷弾を投下し、決定的なものでした。大空襲は昭和6月18日でした。昼間は爆弾・カンサ機、夜は焼夷弾、朝から晩まで合間のないほどの攻撃を受けました。浜松は焼け野原となり、母は兄、私、妹2人を連れて、あの火の海の中をさまよい、死体の転がっている中で、「お母さん、こわいよー」と妹たちが泣き叫んでいました。母は勇気を出して「走りなさい」と叫びました。その時の光景は今も忘れません。
浜松は、全国でも一番多くの空襲を受けたと記憶されています。
次は、爆撃における爆弾、焼夷弾、カンサ機について話をしてみたいと思います。
続く