父親の戦時体験 ~静岡県浜松市の空襲~ 第3回
理事長 山田 育男
次は、爆撃における爆弾、焼夷弾、カンサ機について話をしてみたいと思います。
爆弾は1万メートル上空から落ちてきて、200メートル四方建物、人や何もかもすっ飛んでしまいます。けたたましいサイレンが鳴り、防空壕に入って静かにしているのですが、どこに落ちるかわからない不安とおそろしさでいっぱいです。落ちる時の状態はものすごい不気味な音がするのです。爆風と言いますか、ものすごい風を切るような「サァー」と言う音が、瞬間ドカンとものすごい音がして、地上に落ちるのです。命が縮む思いと、どうしていいかわかりません。落ちた所は(30メートルの)大きな穴が。カンサ機はロッキードと言う飛行機で、動く物は無差別に機銃掃射してきます。二階の屋根くらい低空で来て、パイロット姿がはっきり見えるのです。たまたま空襲警報があり、何人かで学校に帰る途中にカンサ機にあい、逃げ場を失い、命からがら逃げ、無残なものでした。身体の震えが止まりませんでした。
焼夷弾の太さ15センチくらいなどが丸い桶の中に36本つめて(クラスター爆弾)、上空1500メートルから落とし、地上から50メートルあたりから桶がばれて地上に落ちる。中に入って(パナーム油)石油とゴムのりが散らばり、瞬く間に火の海になり、想像もつかないほど、地上に広がり、そこから逃げ出すのは大変でした。焼夷弾はほとんど夜に落とします。はじめは照明弾と言いまして、地上を明るく照らすため、花火のようなきれいなものが落ちます。地上ナイターのように明るくなり、落とします。逃げる時は明るい方に行くと日に巻かれてしまいのすので、暗い方暗い方へ逃げるのです。人の叫び声とか子どもの泣き声は、今でも耳に焼き付いています。焼夷弾の場合は、防空壕は役に立ちません。それがかえって命取りになります。地上が焼け、防空壕の中は熱と煙で酸素がなくなり、中に入る人はほとんど、死んでしまうのです。
クラスの友達も多くそれで亡くなり、40人クラス最低20人はなくなってしまい、明日は自分ではないかと恐ろしい毎日でした。
学校に行くのですが、ほとんど勉強はできません。毎日が怖さとひもじさで「これでおしまいかな」と思いました。ほとんど焼け野原となり、それでも昭和20年7月29日は、遠州灘から陥没射撃をしてきました。「もうこれはダメだ」と思いながら母親の生まれた磐田というところまで、夜中、家族で歩き続けました。
昭和20年8月15日、終戦を迎えました。父は復員してきましたが、そこからまた戦後の苦しい生活がはじまりました。
二度とこのような戦争は起こしてはなりません。
両親、先生方の言うことを聞き、身近なお友達と仲良くし、感謝と思いやりを持って、世界の平和がいつまでも続くように祈っております。
終わり