8050の処方箋を考える
~善い大人たちとの出逢い 5~
理事 佐藤 信行
1980年代後半、狂乱のバブル期にキャンパスライフを過ごした僕は、性懲りもなく学業に専念しませんでした。大学の図書館には近づいたことも無く、学期末の試験期間に「信さんは勉強しないのですか?」と後輩たちが問うので、僕は「普段勉強しない奴が、試験前だからといって勉強するのは卑怯だ!」と吠え、授業の代返を頼み学校を抜け出しました。
当然、ギリギリの成績で、しかも社会福祉士資格試験の受験資格に要する科目「医学一般」と「介護概論」を落としていたため、受験資格を得ずに卒業しました。
就職先は、学生時代に実習でお世話になった、地元千葉の「知的障がい者就労継続支援B型」の施設長さんが声を掛けて下さり、渡りに船と就職しました。当時は、介護福祉士や社会福祉士や精神保健福祉士といった資格がなくても正規採用された時代でした。
しかし、僕は仕事で腰を傷め腰椎椎間板ヘルニアを患い手術することになります。執刀医に「手術の結果は、優・良・可・不可のいづれかになるかわかりません。優は大変良くなる、良は良くなる、可は変わらない、不可は悪化するです。それでも手術を受けますか?」と言われました。当時、婚約者との結婚が控えていたために、元気になって結婚しようと決意して手術を受けました。
手術の結果は「不可」でした。まるで学生時代の学業不振の成績表のようでした。因果応報とは、このことです。自ら婚約を解消し、職を辞して療養に入り、人生三度目の引きこもり生活がスタートしました。20代末に、自分の人生に絶望して精神を病み、腰痛と神経症に身心を苛まれ精神科に通院するようになりました。処方された睡眠薬を密かに貯めて自殺未遂を起こしました。幸い一命をとりとめましたが、驚いた両親が僕が馬鹿なことを繰り返すのを怖れて、C大学医学部付属病院精神科に入院させました。僕は、拒否する元気もなく、促されるままに入院しました。
「隔離病棟」そこは、外界と隔絶された不思議な世界でした・・・