8050の処方箋を考える
~善い大人たちとの出逢い 6~
理事 佐藤 信行
措置入院(強制入院)は、本人の同意が無ければできませんが、精神科医師二名の措置入院が必要であるとの診断があれば、本人の同意が無くても措置入院が可能です。自殺未遂を起こした僕は拒否する元気が無かったので入院はスムーズに行われました。僕の病室は四人部屋で同じ年頃の患者さんが居ました。外界と隔絶された世界は、高校時代の寮生活で馴染みがあるので抵抗感はありませんでしたが、僕は無気力状態になっていたので一日中ベッドで寝ていました。人は、これ程までに寝ていられるのかと思う程、食事時間以外は寝ていました。今思えばこの眠りは僕にとって必要な時間だったのでしょう。入院生活に慣れて精神状態が落ち着いてくると、患者同士の間で仲間ができるのですが、僕は、あえて仲間の和に入りませんでした。僕は、ここに居る人達と自分は違うという気持ちがあったからです。
入院生活で一番辛かったのは、クリスマスに病棟の看護師さんがロビーの片隅に飾ってくれたクリスマスツリーの電球が、深夜にトイレに起きてロビーの前を通った時に暗い中でチカチカと点滅しているのを見て「街はクリスマスなのに、僕はもう世間には戻れない・・」と、社会と自分の住む世界との隔絶を、はっきりと認識した時です。
危険なことをするおそれは無いと診断され、9ヶ月程入院して退院しました。そして神経症を治療するために、母が探してきた東京中野区にある森田療法の治療施設に入院しました。ここでは、生活を営みながら生活そのものが治療となる療法が行われています。しかし、ぼくの場合腰痛が生活療法の継続を困難としたため、3ヶ月程で退院しました。
自宅に帰って、腰痛治療を沢山試みました。病院の診察券が厚く貯まってトランプのシャッフルができる程の枚数でした。結局、腰痛治療に一番効き目があったのは、市民プールでの水中歩行でした。毎日市民プールに通い、50メートルの温水プールの中を1時間程レーンに沿って歌を歌いながら歩いていました。水の浮力が無理無く筋力を増強して、いつの間にか腰痛が治りました。そして32才の1999年のゴールデンウィークに、僕は母に「社会福祉士試験の受験資格を得たいから、もう一度学校へ行かせて欲しい。」と頼むと、僕が引きこもっていた数年間、一度も涙を見せなかった母が初めて泣いて「・・良かった、待っていたのよ。」と言ってくれました。
僕が1990年に卒業した、プロテスタント系神学福祉単科大学は、卒業生社会人枠という制度があり、卒業生は科目履修のために学費の25%で1年間再入学できます。僕はこの制度を利用して、医学一般と介護概論を履修するため2000年度に第4学年に編入して、学校の近くのアパートを借りてリハビリを兼ねた学生生活を始めました。
10年振りの母校は、温かく僕を迎え入れてくれました。そこで、初めて僕は学問の楽しさに目覚めます。