ムレヤマ伝説の謎 ~周縁に生きる人々~ 連載 第15回
第一章 弘法大師の伝説 ~外者歓待~(承前)
『一遍聖絵』を通して境界に生きる人々のあり方を捉え直す(承前)
あらためて宗教学者の柳川啓一の次の言葉に立ち戻ってみたい。
「聖なるものは、遠ざけられただけならば、人間とは没交渉になる。人間は、聖なるものにたとえ危険があっても近くに進んで、聖のもつ力を自分の中にとり入れ、生命力を更新したいのである。それを行うのが儀礼である」(『宗教学とは何か』)
では、なぜ「人間は、聖なるものにたとえ危険があっても近くに進んで、聖のもつ力を自分の中にとり入れ、生命力を更新したい」のだろうか。いや、こう言い直そう。なぜ「人間」は「生命力を更新」するために「聖なるもの」を「自分の中にとり入れ」る必要があるのだろうか。自分の全存在に危険を冒してまで、なぜ儀礼という手続きを通して、聖なるものとの交渉が必要なのだろうか。
そう繰り返し問い直しながら、さらなる次の疑問符が立ち現れてくる。
人間は、なぜ生命力を更新するのだろうか。いや、生命力を更に新しくしなければ、人間は、なぜ生きることができないのだろうか。
薗田稔は、「祭り」には「社会」「ドラマ性」「遊び」という三つのポイントがあることを論じてきたが、そのポイントを整理する中で、柳川啓一の「人間は、聖なるものにたとえ危険があっても近くに進んで、聖のもつ力を自分の中にとり入れ、生命力を更新したい」という言葉がきわめて重要な意味合いを持つに至ったのには、それなりの理由がある。それは、「儀礼」及び「祭り」には「ケガレ」と「キヨメ」との関係があるからである。とりわけ、「ケガレ」という言葉については、歴史学者、民俗学者、宗教学者、文化人類学者などの間で「ケガレ論争」が起きており、様々な物議を醸し、いまだ決着はついていない状況である。しかし、各分野の立場同士で考え方を突き合わせ、論争が繰り返されていく中で、「ケガレ」という言葉が捉え直されてきたことは事実である。論争してきた当事者間においては、喉に魚の骨が刺さったような違和感は残ったと思うが、論争プロセスそのものは有意義な議論だったと総括できるだろうと思う。とりわけ、「ハレ・ケ・ケガレ」論争は、先刻から考察してきた「儀礼」及び「祭り」について考察する際、豊かな示唆を与えてくれるのではないかと思っており、現に、薗田稔は『祭りの現象学』の中で「祭りと遊び」の議論の後、別の章において「ハレ・ケ・ケガレ」の議論を展開しているが、これは偶然とは言えまい。
さしあたって、ここでは、共同討議『ハレ・ケ・ケガレ』(桜井徳太郎・谷川健一・坪井洋文・宮田登・波平恵美子)、波平恵美子『ケガレの構造』『ケガレ』、桜井徳太郎『結衆の原点』、宮田登『ケガレの民俗誌』、沖浦和光・宮田登『ケガレ』、薗田稔『祭りの現象学』、近藤直也『祓いの構造』『ハライとゲガレの構造』『ゲガレとしての花嫁』 の議論を土台に「ハレ・ケ・ケガレ」について考察することにしたい(ちなみに、服藤早苗・小嶋菜温子・増尾伸一郎・戸川点 編 『ケガレの文化史』も参照する)。
未完
(山田 育男)
ムレヤマ伝説の謎 ~周縁に生きる人々~ 連載第14回
第一章 弘法大師の伝説 ~外者歓待~(承前)
『一遍聖絵』を通して境界に生きる人々のあり方を捉え直す(承前)
宗教学者の薗田稔は柳川啓一編『セミナー宗教学講義』の中で、「祭り」には三つのポイントがあると言う。以下に整理したい。
一つめは、「祭り」が「社会」であるということである。中国の「社会」という言葉の古い形では、「社」というのは土地の神様を意味し、農村で春や秋に男女が野原に出て耕地の神様を祀る集まりを意味する。「会」とは「集まり」を言う。「社会」とはそういった「祭り」の意味を持っていた。
薗田稔によれば、ある信仰をともにする共同体のメンバーが集まって、その社会の根拠となって神様の世界や理想的世界を共同で再現しようとする「集団儀礼」という考え方があると言う。これは、共同体で理想的社会を実感し、喜び合う催しである。だから、「祭り」は一回だけでなく、一定の期間をおいて繰り返される。「祭り」が一年の季節ごとに行う「季節の祭り」という性格があるのはそういうことであると言うのである。
二つめは、「祭り」は「ドラマ性」があるということである。ドラマ性があるというのは、「祭り」には一定の空間と時間の中で、特定に演じられる一つの「社会劇」であるということなのである。「祭り」には祭場、聖なる世界(空間)を設定する。たとえば、のぼりを立てたり、提灯を飾ったり、山車や神輿を組み立てたりして「劇場」を仕立てる準備をして神様を迎える世界をつくっていくのである。
三つめは、「祭り」は「遊び」という要素で捉えると考えやすいということである。たとえば、「神遊び」「田遊び」というように、本来、「遊び」は「祭り」とつながっていると言う。「遊び」は、本当かうそかを判断して行わないのと同じように、「祭り」は信じるか信じないかを差しおくところがある。換言すれば、うそであるとわかったうえで、真剣にその中に引き込まれていくことが「遊び」であり、「祭り」もそうした性格があると言う。
薗田稔は『祭りの現象学』の中で、「遊びと祭り」の関係を言及し、ホイジンガが「遊びを人間文化の中核に据え直したこと」に着目する。薗田稔はホイジンガの「遊びは自由な行為であり、『ほんとのことではない』としてありきたりの生活の埒外にあると考えられる。にもかかわらず、それは遊ぶ人を完全にとりこにするが、だからと言って何か物質的利益と結びつくわけでは全くなく、また他面、何かの効用を織り込まれているものでもない。それは自ら進んで限定した時間と空間の中で遂行され、一定の法則に従って秩序正しく遂行し、しかも共同体的規範を作り出す。それは自らを好んで秘密で取り囲み、あるいは仮想をもってありきたりの世界とは別のものであることを強調する」(『ホモ・ルーデンス』)という文章を援用し、「『ありきたりの生活』を排除した時間と空間の中で、独特の法則と真の自由との統一する位相を示すところに、遊びと祝祭の共通点を見出している」と述べた後、次のように言っている。いくつか引用しよう。
「われわれにとって当面大事なことは、祭りが遊びと同様に意識的な信と不信という次元を超えた独特の実在空間を現出する点にある。役者が演ずる役柄の実在を信ずるか否かは別として、その演技されるドラマが現実を異にした独特の世界を生むか、どうかが問題なのである。その意味では、芸術における幻想の実在性と同じである。詩の現出する幻想や劇場内のドラマ空間は、日常的には偽りでありながら、より強烈な人間的真実をわれわれに訴えてくる。問題なのは、芸術家個人の醒めた意識ではなく、特定空間に表象されるイメージの実在性である」(『祭りの現象学』)
「平凡な一日の生活のうちでも、われわれは夢の世界、テレビの世界、音楽の世界、スポーツや遊びの世界、劇場の世界などに出入りして、ふたたび世界に戻っていく。支配的な日常領域と同様、それぞれが特有の実在のアクセントを持ち、特有の時空の構造を持って、われわれの実在感を支配するのである」(前掲書)
「実在性が表象の構造にともとづくのであれば、表象の仕方によってさまざまに独特の実在性が生じ得ることになる。なにも、日常的現実の世界だけが独り実在性を独占し得るものでもない。夢は眠りの世界に、遊びは遊びの世界に、そして祭りは祭りの世界に現れるかぎり、それに劣らぬ実在性を発揮できるのである」(前掲書)
「しかし何よりも重要なことは、祝祭空間の実在性である。個人意識にも集団意識にも直接に還元し得ない象徴的表象の世界こそ、遊びやドラマに比すべき非日常的な実在感を祭る人々に与えるのである」(前掲書)
以上の引用は、さきに薗田稔が「祭りの三つのポイント」を整理した内容を統括的に論じていることがわかるだろう。
続く
写真 祇園祭山鉾巡行(月鉾)・京都市(柳川啓一『宗教学とは何か』法藏館)
(山田 育男)
ムレヤマ伝説の謎 ~周縁に生きる人々~ 連載第13回
第一章 弘法大師の伝説 ~外者歓待~(承前)
『一遍聖絵』を通して境界に生きる人々のあり方を捉え直す(承前)
中沢新一や島田裕巳などに影響を与えた宗教学者の柳川啓一は『宗教学とは何か』の中で、「儀礼」の果たす二つの役割について述べている。
一つ目は、「儀礼」は「聖と俗をつなぐ媒介」となっているということである。「聖と俗の間」には「深い断絶」があり、両者は互いに「隔離」され、容易に「接触」を許さず、「接触」をするためには厳重な手続きが必要であり、その手続きが「儀礼」であると言う。
「聖なるものは、遠ざけられただけならば、人間とは没交渉になる。人間は、聖なるものにたとえ危険があっても近くに進んで、聖のもつ力を自分の中にとり入れ、生命力を更新したいのである。それを行うのが儀礼である」(『宗教学とは何か』)
柳川啓一によれば、「儀礼」とは「聖と俗とのコミュニケーション」をはかる重要なチャンネルなのである。
柳川啓一は、「儀礼」の持つもう一つの役割は「単に心の中で思い浮かべるというのではなく、外に向かって表現することにより、身体を含めた人間の全存在が開かれることである」と述べている。つまり、「儀礼」とは「心と身体」が不可分に結びついていることを言う。「祭の儀礼」は、外に向かって表現する。たとえば、柳川啓一は「神仏を崇拝するしかた」の中に、「色彩、音楽、舞踊、競技、饗宴など、見る、開く、かぐ、ふれる、味わうという五つの感覚と、運動感覚を、いわば総動員している」と述べる。柳川啓一は『祭と儀礼の宗教学』の中で、柳田国男『日本の祭』の祭論について言及しているが、「身を清くしてけがれから遠ざかることが、祭の準備であること」(「つまりは『籠る』といふことが祭の本体だつたのである。即ち本来は酒食を以て神をおもてなし申す間、一同が御前に侍座することがマツリであつた」)、とりわけ重んじることは「神を饗応すること」であり、「食物を供えることと、神楽、舞踏、競技などの芸能を見せること」だと言う。これはさきほど整理した「色彩、音楽、舞踊、競技、饗宴など、見る、開く、かぐ、ふれる、味わうという五つの感覚と、運動感覚を、いわば総動員している」と通底する内容であると言えるだろう。
ちなみに、宗教学者の薗田稔は、「祭り」の意味について興味深いことを言っている。紹介しよう。
「祭りとは、奉るという意味と、神様を待つ(wait)、迎えるという意味を含んでいるだろうと思います。英語でいいますと、”wait on”という言葉は、待つという意味もあるけれど、サービスをするという意味もあります。したがって、ウエイターとかウエイトレスという言葉があるように、待つことと、歓待し奉仕するという意味が祭りという言葉にもあろうかと思います」(柳川啓一編『セミナー宗教学講義』)
以上から、柳田国男、柳川啓一、薗田稔は「神様を手厚くもてなして待つこと」という意味として「祭り」という言葉があることを述べていることがわかるだろう。
もちろん、そればかりではない。柳川啓一は「祭」には「冠婚葬祭」というときの「祭」のほかにもう一つの意味があると言う。
「日本語のまつりの第二の意味は、神道においては、一定の方式によって神々に敬意を表する儀式をすべて指す。日本の神道においては、神社と鎮座する神だけでなく、天も地にも、野にも山にも、多くの神を想定するから、多くの祭が、いかなる場所でも、いかなる時でも行われ得る。一つの神社をとってみても、元旦の元始祭から、年末の大祓(けがれをきよめる祭)まで、各月々は一日、十五日の月次祭を加えて、数日、祭りが行われる」(『宗教学とは何か』)
元旦の元始祭から、年末の大祓(けがれをきよめる祭)までの祭りは、専門の神主によって、参列者もなく行われる儀礼である。普通の人々にとってのおまつりは、年に一回、多くて二回であり、神職、神主だけでなく、一般の人々も参加できる行事である。たとえば、それは、神輿、山車、華やかな芸能、競技をともなう行事である。複雑で、念入りな行事としては「京都の八坂神社の祇園祭」が挙げられるだろう。ちなみに、「京都の八坂神社の祇園祭」には、さきに紹介した「犬神人」が深くかかわっていた祭りであった。横道に逸れるが、絵画資料を使って「非人のあり方」を具体的に明らかにしてきた歴史学者は網野善彦だけでなく、歴史学者の黒田日出男も『境界の中世 象徴の中世』(その他にも意欲的な仕事として『絵画資料で読む歴史を読む』、『姿としぐさの中世史』などがある)で「祇園会を先導する犬神人の姿」の読解を試みている。
続く
ムレヤマ伝説の謎 ~周縁に生きる人々~ 連載 第12回
第一章 弘法大師の伝説 ~外者歓待~(承前)
『一遍聖絵』を通して境界に生きる人々のあり方を捉え直す(承前)
歴史学者の丹生谷哲一は『日本中世の身分と社会』に収録されている「古代奴婢制と中世非人」という論文の中で、「近年の中世非人の研究はめざましいものがある」と述べている。たとえば、「卑賎観と触穢思想の問題、天皇と都市を中核としたケガレ=キヨメの構造的理解、キヨメの職能集団としての非人身分、もっとも穢れたる存在としての癩者の位置づけ」など、多彩な論点が提起されてきたと言う。むろん、丹生谷哲一は『日本中世の身分と社会』及び『検非違使』の中で、「中世非人研究」で大きな貢献を果たしてきたことは言うまでもない。たとえば、丹生谷哲一は「古代奴婢制と中世非人」の中で、次のようなことを述べている。長いが引用しよう。
「一〇~一一世紀が非人身分形成の画期であり、ケガレ=キヨメが国家的管理の対象なってきたとき、これを統括したのは検非違使(庁)であった。平安時代の日記帳によれば、皇居清掃をはじめ賀茂・春日祭・御願寺供養その他公的行事にあたって『掃除事、検非違使奉行之』例であったし、また、神社などに不浄(穢)ありとされたばあい、その不浄物―多くは葬送や死体装置―を実施し、汚穢物を除棄し、穢した者を科祓するのはほかならず検非違使であった。そればかりか検非違使は穢の有無や種類の判定者であった。仁平四年(一一五四)四月、関白藤原忠通の御堂の承仕の死穢が禁中におよぶか否かかが問題となったさい、死体を片づけた清目や妻女らが検非違使庁に喚問され、『穢甲乙次第』が勘申されている。そして、このような検非違使の配下で実際に掃除・汚穢物除棄の作業に従事したのが獄囚・放免・乞食・清目・河原法師らであり、やがて『方々之清目』『重役之非人』として、身分的位置を鮮明にしてゆくのである」(「古代奴婢制と中世非人」)
以上のことから、丹生谷哲一は、中世非人身分の形成と構造に、検非違使の果たした役割はほとんど決定的であったと考えてもよいと言う。さらに、「非人と検非違使」との関係の中で、注目すべきこととして、「施行の問題」について取り上げている。中世非人施行は「濫僧供」とも呼ばれ、それは「濫僧供検非違使某行之」と記されており、その担当者は「検非違使」であったと言うのである。また、「東北院建立供養」では「検非違使中原章成」は「掃除」と「濫僧供」の両方を兼行しており、「掃除(キヨメ)と非人施行」が密接な関係であったことや、ともに「使庁の管轄下」であったことを指摘している。
丹生谷哲一は『検非違使』の中で「検非違使とキヨメ」の関係について詳細に分析しているが、「中世における神事と穢、天皇とキヨメの問題」を考えるうえで最も興味深い存在として「祇園社の犬神人」を挙げている。丹生谷哲一は、長元年間、祇園四至内に「葬送法師」=キヨメのいたことを確認されていることを整理しつつ、それらのキヨメ=非人がやがて祇園社と隷属関係を結び、「社恩として四至内河原田畠を賜わるということは十分に考えられる」と述べた後、次のように言っている。
「さて、犬神人は、(略)祇園四至内の汚穢物除棄はもちろん、毎年六月一四日の祇園会の祭礼日には神幸に先んじて前路の不浄物を取り棄て、もし死屍があれば直ちにこれを他所に埋めたのであるが、ここで注意しておく必要があると思われるのは、かかる犬神人の穢物除棄と検非違使の関係である」(『検非違使』)
以上の引用からもわかるように、丹生谷哲一は「犬神人は、あくまで王朝国家=使庁の統轄の下で、祇園社および洛中の穢の取締り機能の担い手として編成していた」と述べる。
さきに網野善彦は「中世の『非人』をめぐる二三の問題」の中で、祇園社に属する「犬神人」と、「清水坂非人」とが重なる集団であることが確認されただけでなく、その活動の実態が詳細に解明され、さらに、祇園社の犬神人は山門西塔釈迦堂寄人として檀供寄人(檀供神人)と同じく、「職掌人」であり、「重色人」であったと言う。
繰り返すが、網野善彦によれば、「犬神人」は「墓所の法理」の適用を求めていることから、「神人」「寄人」であり、「聖別」された神仏の直属民であった。丹生谷哲一の『検非違使』からもわかるように、犬神人・非人は「王朝国家の職能民に対する支配制度としての神人・供御人制の下に組織され、京都・奈良・鎌倉の寺社をはじめ諸国の一宮、国分寺などに属するとともに、京都では検非違使の統轄を受けていた」(網野善彦)のである。したがって、これらの人々は神人・寄人の称号を持つ「職人」身分に属し、「聖別」され、ときに「畏怖」される一面を持つ存在だったのである。
いや、正確を期して言えば、そう述べるのは網野善彦であって、丹生谷哲一の「古代奴婢制と中世非人」には「私は決して、中世非人が『職人の一種』としてなんら差別・賎視されていなかったとか、いかに特殊形態とはいえ『百姓身分の一種』であったとか、考えているわけではない。非人は、まさに中世社会におけるケガレ身分として、一般共同体から体制的に排除され、坂・宿・河原・乞場に集住することを強制された存在として、社会的に斥出・形成されてきた一箇の新しい被差別身分であった」と言っているので、網野善彦との微妙な差異が見られることも事実であるだろう。
丹生谷哲一の論の展開には学ぶことが多く、頭が下がる思いである。丹生谷哲一の仕事に敬意すら感じている。にもかかわらず、網野善彦の「犬神人」のとらえ方についても捨てがたい重要な「何か」がある。それは、網野善彦が「穢多」「非人」「飛礫を打つ人々」などの「被差別民」には「人の力をこえた異様な力」を持っていたと述べていたことである。繰り返すが、網野善彦は『日本の歴史をよみなおす』の中で、「非人」「犬神人」の職能としての「芸能」を取り上げ、天皇の近くまで行って世の「ケガレ」を清める芸能、千秋万歳を祈る芸能をやっていた「犬神人」には「特異な力」を持っており、当時の人々はそれに対する「畏怖感」を持ってとらえていたのではないかと言う。網野善彦のそうした視点は、「犬神人」が「穢」と「清め」にかかわっている存在であるということと深くかかわっているのではないかと思うからである。つまり、「穢」と「清め」にかかわっている存在ということは、「犬神人」が「聖と俗の境界にかかわる存在」であるということにほかならない。宮家準は、「聖と俗の境界にかかわる変則的なもの」は「神秘性と魔性」という「二律背反的な感情」で受け止められており、「浄と不浄の観念」、さらにその根柢にあるのは「不思議な力」にもとづくと考えられると述べていたことを想起しよう。網野善彦は『異形の王権』及び『日本の歴史をよみなおす』の中で、『一遍聖絵』の「犬神人」について取り上げているが、「犬神人」は「境界にかかわる者」として描かれているのである。
「境界にかかわる者」とは「聖と俗の間をつなぐ者」と言ってよい。「穢」と「清め」にかかわるということは、「穢」を「祓う」ということであり、「犬神人」はまさに「聖と俗の間をつなぐ媒介者」なのである。「聖と俗の間をつなぐ媒介」となるには「儀式」という手続きが必要になってくる。そうした「儀式」を行う者こそ、「犬神人」という存在なのである。
では、なぜ「犬神人」には「人の力をこえた異様な力」及び「不思議な力」を持っていたのであろうか。それを考察するには、宗教学者の柳川啓一の『宗教学とは何か』の中で論じている「儀礼」について整理する必要があるだろう。 続く
(山田 育男)
ムレヤマ伝説の謎 ~周縁に生きる人々~ 連載第11回
第一章 弘法大師の伝説 ~外者歓待~(承前)
『一遍聖絵』を通して境界に生きる人々のあり方を捉え直す
歴史学者の網野善彦は『日本の歴史をよみなおす』の中で、被差別部落に関する研究、とりわけ、「中世の非人、河原者等の研究」がめざましい成果をあげており、「新しい資料がつぎつぎに発掘されている」だけでなく、「非人や河原者に対する国家の支配、寺院、神社の支配」を具体的に明らかにした丹生谷哲一の『検非違使』の研究や、黒田日出男、河田光夫、保立道久などが絵画資料を使って「非人のあり方」を具体的に明らかにしようとしている仕事、さらに中世における差別の最大の原因となっている「ケガレ」の問題については、民俗学者の宮田登、歴史学者の横井清や山本幸司などによってすぐれた研究が現れてきたと述べている。
もちろん、網野善彦も被差別部落に関する研究に大きく貢献しており、たとえば、網野善彦は『異形の王権』『日本の歴史をよみなおす』『中世の非人と遊女』の中で、『一遍聖絵』という絵巻物を詳細に分析している(ちなみに、網野善彦はすで紹介した『異形の王権』の中では『一遍聖絵』『融通念仏縁起絵巻』『法然上人絵伝』などの多様な絵画の本格的な読解に挑んできた)。『一遍聖絵』は寺社や山水の描写に比重を大きく置いているが、むしろ、網野善彦は「非人」、「乞食」、「犬神人」、「童形の人々」、「癩者」などが登場することに着目し、『一遍聖絵』は「他の絵巻物と比較して特異な絵巻物」と位置付けている。網野善彦は、南北朝時代に『一遍上人絵詞伝』があるが、ここでは多くの「乞食」や「非人」などが描かれているものの、『一遍聖絵』と比較して「非人」、「乞食」などの姿が「類型化」されており、「躍動的」に描かれていないと言う。一方で、『一遍聖絵』では「非人」、「乞食」、「犬神人」、「童形の人々」、「癩者」などの姿が非常にリアルに描かれており、「その時代を描く貴重な資料」であると述べている。
これから『一遍聖絵』に登場する「非人」、「乞食」、「犬神人」、「童形の人々」、「癩者」などの姿から、網野善彦がどのようなことを捉え直そうとしたのかについて言及していくことにしたい。
ところで、『一遍聖絵』は時宗の宗祖・一遍上人の生涯を描いた絵巻物であり、美術品だけでなく、史料としても非常に価値が高いものである。絵は法眼の地位にあった画僧・円伊が描き、全十二巻四十八段あり、全長百三十㎝もある。一遍は十三歳で出家し、独自の踊念仏という信仰を生み出して諸国を遊行した。貴賤を問わず広く念仏を勧め、民衆の布教に努めた。『一遍聖絵』はまさにそうした一遍上人の活動を忠実に記録した絵巻物なのである。
『一遍聖絵』には「非人」、「乞食」は一人ひとり生き生きと描かれている。もちろん、「乞食」や「非人」だけでなく、覆面をしている「犬神人」、「童形の人々」も描かれており、非常に興味深い。さしあたって、ここでは、網野善彦が注目する「犬神人」に限定して論を進めたいと思う。
網野善彦の「中世の『非人』をめぐる二三の問題」によれば、「犬神人」ついては様々な新しい視点に立った研究が発表され、たとえば、祇園社に属する「犬神人」と、「清水坂非人」とが重なる集団であることが確認されただけでなく、その活動の実態が詳細に解明されてきたと言う。祇園社の犬神人は「いぬひしにん」と呼ばれ、山門西塔釈迦堂寄人として檀供寄人(檀供神人)と同じく、「職掌人」であり、「重色人」であったと言う。
網野善彦によれば、「犬神人」は「犬」という文字を付されているが、「墓所の法理」の適用を求めていることから、「神人」「寄人」であり、「聖別」された神仏の直属民であった。丹生谷哲一の『検非違使』からもわかるように、犬神人・非人は「王朝国家の職能民に対する支配制度としての神人・供御人制の下に組織され、京都・奈良・鎌倉の寺社をはじめ諸国の一宮、国分寺などに属するとともに、京都では検非違使の統轄を受けていた」(網野善彦)のである。したがって、これらの人々は神人・寄人の称号を持つ「職人」身分に属し、「聖別」され、ときに「畏怖」される一面を持つ存在だったのである。
祇園社の犬神人は、境内、社頭、祇園祭の神幸路の清掃のほか、戦乱や飢饉などの際の死体の処理権、葬送権を持ち、死者の衣服や副葬品を取って利益としていた。
ちなみに、丹生谷哲一は「犬神人小考」という刺激的な論文を書いているが、それには「河原者」と「犬神人」との関係について述べている。歴史学者たちの間では「河原犬神人」という存在が想定するかという論争が起きていたが、丹生谷哲一は科学的根拠として『愚管記』という資料を提示し、「河原者」と「犬神人」を峻別し、むしろ、お互いに対峙する関係にあったのではないかと主張する。その関係を図式化すれば、以下のようになると言う。
〈王法〉公家-使庁・侍所[武士・下部]-河原者
〈仏法〉山門-祇園感神院[大衆・神人・宮仕]-犬神人
検断行使をめぐっての「河原者」と「犬神人」の抗争については、上に図式化された関係の違いによって生じた抗争であると丹生谷哲一は論文で述べているが、その詳細についてはここではあえて割愛させていただく。さしあたって、ここで重要なことは、「犬神人」が「穢」と「清め」にかかわっている存在であるということなのだ。
続く
(山田 育男)
ムレヤマ伝説の謎 ~周縁に生きる人々~ 連載第10回
第一章 弘法大師の伝説 ~外者歓待~(承前)
「境界」の向こう側に広がる未知なる領域
民俗学者の赤坂憲雄は、「異人」論を展開するために「境界」という概念に着目した。「異人」は「内部と外部のはざま」に立つ存在であった。「境界」とは「媒介のための装置」であり、その「媒介のための装置」として「窓・扉・門・橋」があることをすでに整理しておいた。繰り返すが、「〈異人〉とは、共同体が外部に向けて開いた窓であり、扉である。世界の裂けめにおこれた門、である。内と外、此岸(こちら)と彼岸(あちら)にわたされた橋」なのである。
かつて民俗学者の柳田国男は「伝説」が「文化の水準を異にした二つの部曲」の「新たな接触面に沿うて現れやすい」(「史料としての伝説」)と言っていたが、赤坂憲雄は「物語の境界/境界の物語」の中で、柳田国男のその文章にふれながら、「境界の向こう側に広がる未知なる領域」について次のように述べている。
「境界の向こう側に広がる未知なる領域を、仮に異界や他界とよんでおく。この異界や他界がさまざまな貌をもつことはいうまでもなく、それゆえに、そうした異界や他界への通路である境界にもまた、思いがけず定型にまみれた像には収斂されがたい異相の風景が拓けてくることになる」(「物語の境界/境界の物語」)
赤坂憲雄は柳田国男の『遠野物語』というテクストを参照し、「家の境界」として「軒・門口・庭木」、「集落の境界」として「寺門・道ちがえ」、「水辺の境界」として「橋・河原・池の端」、「山中の境界」として「峠」を挙げ、それぞれのレヴェルの「境界」のまわりにひろがる風景に目を転じる。赤坂憲雄の説明するいくつかの事例を以下に挙げてみたい。
「二七日の逮夜つまり十三日目の夜に、亡くなった老女があらわれる。死者は門口の石に腰を掛けている。屋敷の内/外をかぎる境界の門に置かれた石のあたりが、いわばもっとも身近な他界と往還の通路であったことが知られる」(前掲書)
「ここで死者が出現するのは、軒下の雨垂れ落ちの石の付近である。さきほどの事例では門口の石であった。(略)列島のフォークロアのなかでは、しばしば軒下や雨垂れ落ちが、家の内/外を分かつ境界であったことを想起してみたい。そこはじつは、戸口・敷居の下・土間などとならんで、胎盤やへその緒、そして死産した子どもや間引かれた水子が埋められた場所、いわば生/死または現世/他界を隔てる境界領域であったのだ」(前掲書)
「ひとりの男がふつうの人間の姿から、急に大きくなって、妖怪であるノリコシとして正体をあらわらすのは、雨打ち石のあたりまで退いたときである。(略)幽霊や亡霊らしきモノらとの遭遇譚がいずれも、家や屋敷の内/外をかぎる境界的な場所を舞台としていることを重ねあわせてみれば、偶然でなかったことも読めるはずだ」(前掲書)
「熱病のために死に瀕した男の霊魂が、肉体からはなれて、先祖の菩提が弔われている寺に浮遊してゆく。寺の門には人々が群がり、門をくぐると、見渡すかぎり紅の芥子の花が咲き乱れているそのなかに亡くなった父と男の子が立っており、子どもから来てはいけないと拒まれる。(略)この事例では生/死・現世/他界を分かつ境界として、寺の門が鮮明な像を結ばれている。門の内/外で、生ける者らと死せる者らとが綱引きを演じる。寺の門とは、まさに可視化された境界そのものである」(前掲書)
「やはり、河原は空間に穿たれた小さな裂けめであり、そこには山中の異界へと通じる穴=境界がぽっかり口をあけている。人がときに山の神や女神と出会い、占いの術や大力などを授けられるのはそのためだ。思えばしかし、この穴=境界は誰しもにむけてひとしく開かれているわけではないらしい。特異な交感能力を有する者のみ、境界はその在り処を知らせるのだろうか」(前掲書)
赤坂憲雄の取り上げるいくつかの事例は興味深いものばかりだが、「聖と俗の交流」について考える際、実に示唆的な見解を提示しているといってよいだろう。
宗教学者の宮家準は「魔性と神秘性」という論文の中で、「聖と俗の交流を考える際に注目しなければならないのは、聖と俗の境界的な時間と空間に出現するものである」という。宮家準は「境界的な時間」としては「神霊が活動する聖なる夜」と、「人間が活動する俗なる昼のさかいをさす夕方や明け方」、「前世から現世への移行の出産」、「現世から来世への移行の葬儀」、「四季のかわり目」、「日照りの雨」、「突然の闇や夕立」を挙げている。一方で、「境界的な空間」としては「神霊のすまう聖なる他界とされた天上・地下・山や海との境界をなす木や雲の上、峠や丘、浜や岬、洞窟」などを挙げている。
また、境界的な時間や空間に出現したり、かかわりをもったりする存在として、昼か夕暮れにかけては「妖怪」や「鳥」、夜から朝の払暁には「妖怪」や「鶏」が登場し、冬から春にかけては「亀・蛇・熊」など、夏から秋の境界には「赤トンボ」を挙げている。死後は来世にと旅立つ人間の一生においては「前世に近く、現世でまだ人間として確立していない子供」と、「現世の仕事をおえ他界への旅立ちを待つ翁と媼」が境界的なものとして考えられ、「稚児や老人が神のよりましや祭祀者として重要な役割を占めたり、芸能に登場」したりするはこうしたことによると言う。宮家準はさらに次のように言っている。
「この前世と現世の境界において特に重要な役割を果たすのは、前世から赤子をもたらす女性である。また現世の人間としては完成していない不具者や、来世に行く可能性を持つ病人も境界的な存在である。その際童子や翁・媼が清浄なものとされているのに対して、産婦、死者の近親者、不具者、病人などが不浄なものとされている事に注目しておきたい」(「魔性と神秘性」『コスモスと社会』)
宮家準は、「聖と俗の境界にかかわる変則的なもの」は「神秘性と魔性」という「二律背反的な感情」で受け止められており、「浄と不浄の観念」、さらにその根柢にあるのは「不思議な力」にもとづくと考えられると言う。歴史学者の網野善彦が「穢多」「非人」「飛礫を打つ人々」などの「被差別民」には「人の力をこえた異様な力」を持っていたとさきに述べておいたが、ここに深くかかわっているように思われる。網野善彦は『日本の歴史をよみなおす』の中で、「非人」「犬神人」の職能としての「芸能」を取り上げ、天皇の近くまで行って世の「ケガレ」を清める芸能、千秋万歳を祈る芸能をやっていた「犬神人」には「特異な力」を持っており、当時の人々はそれに対する「畏怖感」を持ってとらえていたのではないかと述べる。
続く
(山田 育男)
ムレヤマ伝説の謎 ~周縁に生きる人々~ 連載第9回
第一章 弘法大師の伝説 ~外者歓待~(承前)
異人・被差別民・賤民視された人々・飛礫を打つ人々
民俗学者の赤坂憲雄は『異人論序説』の中で、「異人」の定義づけを行ったことについてさきに述べておいた。大切な視点なので、再度、繰り返しておこうと思う。
赤坂憲雄はゲオルグ・ジンメルの「橋と扉」を紹介しながら、「〈異人〉とは、共同体が外部に向けて開いた窓であり、扉である。世界の裂けめにおこれた門、である。内と外、此岸(こちら)と彼岸(あちら)にわたされた橋、といってもよい。媒介のための装置としての窓・扉・門・橋。そして、境界をつかさどる〈聖〉なる司祭=媒介者としての〈異人〉。知られざる外部を背に負う存在(もの)としての〈異人〉。内と外が交わるあわいに、〈異人〉たちの風景は茫々とひろがり、かぎりない物語群を分泌しつづける」と述べる。赤坂憲雄の「異人」の定義は、民俗学者の折口信夫が『妣が国へ・常世へ』の中で「精霊」について論じたことを想起する。折口信夫にとって「精霊」とはあの世とこの世をつなぐ通路を開くものであり、これは折口信夫の「まれびと」論に通ずる考えでもあった。
さらに、赤坂憲雄は「異人」とは実体概念ではなく、すぐれて関係概念である、換言すれば、関係としての「異人」、「異人」としての関係であり、「異人」は「ある種の社会的な関係の軋み、もしくはそこに生じる影が〈異人〉である」と言うのである。赤坂憲雄がここで言う「ある種の社会的な関係の軋み」、「そこに生じる影が<異人>である」とはいったいどういうことなのであろうか。私は赤坂憲雄の「異人論」から「被差別民」あるいは「賤民視された人々」を投影するのである。
かつて「被差別民」あるいは「賤民視された人々」は、「秩序がコスモス」ゆえにたえず「排除」され続けてきた存在であった。いや、それゆえ、「被差別民」あるいは「賤民視された人々」は、「内部と外部のはざま」という「境界」に立つ。「境界」は「あの世とこの世をつなぐ通路を開く場所」だと言ってよい。したがって、「被差別民」あるいは「賤民視された人々」は「あの世とこの世をつなぐ通路を開く存在」として、一方で、「畏敬の対象」でもあったのであり、歴史学者の網野善彦の言葉を借用すれば、「人の力の及ばない異様な力」を持っていたのである。
少し横道に逸れるが、網野善彦は「日本中世における差別の諸相」の中で、「非人」「穢多」を「悪人」とする捉え方が十三世紀ごろに出ており、その用例は『塵袋』にあると説明する。『塵袋』には「生きものを殺して売る悪人なり」と記してあるが、ここで使用されている「悪人」という言葉は「道徳的な悪人」と違うと説明している。つまり、「人の力の及ばない異様な力を悪」と表現しているのである。網野善彦は「遊女」も「悪の世界につながる」と述べた後、次のように言っている。
「『非人』『穢多』が『悪人』と呼ばれていたのは、殺生というだけではなく、『売る』という行為も含まれていると思いますが、さらにケガレを『キヨメ』る力はやはり人の力をこえた異様な力と捉えられていた面があり、それが悪と呼ばれた理由の一つなのではないかと、この時代の用例から見て私は考えるわけです」(「日本中世における差別の諸相」『日本歴史の中の被差別民』)
網野善彦はさらに、「悪」と呼ばれた事例の一つとして「飛礫打ち」を挙げている。「飛礫を打つ人々」は十三、十四世紀ごろに京都、奈良におり、突然、「集団で飛礫を打ち始める」といい、「飛礫を打つ人々」は「非人や河原細工丸」とかなりの程度かさなると説明し、「悪党」と表現する事例にあると主張する。しかも、網野善彦は「飛礫」は「人の意志を超えた、何ものかの力に動かされて、石を投げ始」め、「中世では飛礫を打つことは、祓い、キヨメの機能を持っている」と考えられ、「神の意志がそこに働いている」とある時期まで捉えられていたと言うのである。
ちなみに、網野善彦は『異形の王権』の中で、「飛礫・石打ちにまつわる習俗は、民俗をこえて人類の広く根をはり、無視し難い大きな役割を果たしてきた。それだけに、この習俗は人をひきつけてやまぬ強烈な魅力を持って」おり、網野善彦自身、「それにひかれてのめりこんだ一人である」とも書いている。中沢新一の言うように、「礫打」は様々なかたちで日本社会の中で生き残っていた。江戸時代では、①子どもの遊びとしての石合戦、②祭礼・婚礼などのハレの行事にあたっての石打、③一揆・打ちこわし・騒動などにおける石礫、に大きく分類して考えられる。ちなみに、正月十五日の小正月、五月五日の節供、八月十五日の中秋など、「『ハレ』の日に行われる飛礫」は、「江戸時代はもとより、最近まで各地に生き続けてきた」といい、「その中には、飛礫に当たって怪我をすることを、むしろ縁起がよいとする習俗があったと報告されて」いる。
また、網野善彦によれば、「飛礫」は「橋」をはさんで行われており、多くの石合戦は「河原あるいは境の川」を間において行われたというのである。赤坂憲雄が「異人」の説明の際に「橋」「扉」「門」「窓」「境界」という言葉を強調していたことを今一度想起されたいが、さらに注目したいことは、「飛礫」の場が「無縁」的な性格を持っていたとともに、「飛礫」は呪術的・神意的な性格を持っていたことも強調してもしすぎることはないのではないか。 続く
(山田 育男)
ムレヤマ伝説の謎 ~周縁に生きる人々~ 連載 第8回
第一章 弘法大師の伝説 ~外者歓待~
共同体を震撼させる存在としての「まれびと」(承前)
折口信夫は、自分の構想する「まれびと」の考えが正しいかを確認するため、沖縄本島と宮古島と八重山群島へ滞在し、聞き取り調査を試みた。島の人々は「あの世」が海の彼方のニライカナイにあると考えていた。ニライカナイとは「根の国」という意味を持つ。言い換えれば、「魂のふるさと」「魂の根拠の場所」という意味である。これは、折口信夫が「まれびと」を考える一つめの意味と同じではないかと驚かされる。中沢新一はこう説明している。
「人が亡くなると、魂はニライカナイに戻っていく。またそこは生命の根拠の場所で、ニライカナイにつながっていないと、『この世』は生命の輝きをなくしていく。しかし、生きている人間はめったなことでは、この海の彼方の『あの世』に行くことはおろか、触れることすらできない。だから島の人々は、『あの世』からの来訪者である『まれびと』の到来を待ち望んでいるのである」(『古代から来た古代人 折口信夫』)
アンガマの祭りでは、仮面を着装し、植物で全身をおおった精霊たちがいかにも「まれびと」らしく、一年に一度だけの決まった日に、村かの裏にある洞窟や奥から、島の人々が緊張しながら待ち受ける神聖な広場にあらわれてくるという。
「ざわざわざわざわとからだを揺すり、踊るように舞うように、『まれびと』が目の前にあらわれると、人々の興奮は頂点に達し、精霊と一体になった人々の心のなかには、『あの世』との通路がひらかれる。生きているものと死者たちの霊とは一体となり、過去と現在と未来がひとつになったような、不思議な時間の感覚があたりを包み込む」(前掲書)
折口信夫が現地で体感してきたアンガマの祭りのありようは、何も南島の祭りだけに見られることではなく、「どこか遠いところから旅をしてやってきて、厳かな雰囲気のうちに到来を待ち受ける人々の前に出現する、神とも精霊ともつかない不思議な存在を、日本列島の至るところの祭りに見いだす」(前掲書)ことができる。
折口信夫は「巡遊伶人」について考察する際、「まれびと」の考えを絡めながら論を立てていたことはさきに述べておいた。折口信夫は沖縄諸島の旅から戻った後、「日本の文学と芸能の『発生』」を論じる、重要な論文を発表したというが、折口信夫にとってそれは必然的な流れであったのではないかと思うのである。繰り返しになるが、折口信夫は『国文学の発生』(第二稿)に収録された「巡遊伶人の生活」という論文の中で、「ほかひびとは、壽詞を唱へて室や殿のほかひなどした神事の職業化し、内容が分化し、藝道化したものを持つて廻つた。最古い旅藝人、門づけ藝者である言ふ事は、語原からして、誤りない想像と思ふ」と書いている。ここで折口信夫の言う「ほかひびと」こそ、「まれびと」であったはずだ。その「ほかひびと」は「旅芸人」や「門つけ芸人」と同義とされていた。つまり、寿詞(よごと)を唱えて歩く職能者を「ほかひびと」と言っていたのである。だとすれば、「まれびと」を深く論じていくには、「民俗芸能」にふれざるを得ない。しかし、ここでは、折口信夫の考える「芸能史の再構成」について論じることにあえて禁欲せざるを得ない。なぜなら、この論稿は折口信夫の「まれびと」論を展開するために書かれているわけではないからである。
どちらかと言えば、沖浦和光の『日本民衆文化の原郷 被差別部落の民俗と芸能』『旅芸人のいた風景 遍歴・流浪・渡世』『陰陽師とはなにか 被差別の原像を探る』を参照し、わが国の民俗芸能を代表する「門付芸」について言及したいと思っている。なぜなら、「門付芸人」は「ほかひびと」=「まれびと」の流れを汲む存在だからである。
続く
写真上 「石垣島・登野城のアンガマ」(國學院大學折口博士記念古代研究所)
写真下 「石垣島のマユンガナシ」(比嘉康雄『神々の古層①』ニライ社)
※なお、写真については、中沢新一『古代から来た未来人 折口信夫』から参照
(山田 育男)
ムレヤマ伝説の謎 ~周縁に生きる人々~ 連載 第7回
第一章 弘法大師の伝説 ~外者歓待~(承前)
共同体を震撼させる存在としての「まれびと」
折口信夫の「まれびと」について論じていくために、折口信夫が師と仰ぐ民俗学者の柳田国男との間での、「神」をめぐる考え方の差異についてふれることにしたい。文化人類学者・宗教学者の中沢新一は『古代から来た未来人 折口信夫』の中で、折口信夫と柳田国男の意見の差異について以下のようにわかりやく説明している。
柳田国男は「共同体の同質性や一体感を支えるものが神」であり、「神と共同体」は「同じ性質を共有」しており、「先祖の霊」こそがそれにふさわしい存在であると考えていた。「祖霊になるべき霊」は、「共同体の『内』から発生」する。だから、「共同体と深い同質感や一体感」を持っている。その「祖霊」が「神」の観念に発達していけば、「神と共同体は一体のもの」となる。柳田国男は、「祖霊」こそが「日本人の神の観念の原型」だと考えた。
一方、折口信夫は「神」のおおもとにあるのは「共同体の『外』」からやってきて、「共同体になにか強烈に異質な体験をもたらす精霊の活動であるにちがいない」と考えており、そこから折口信夫の「まれびと」の思想は生まれた。
さきに、柳田国男が「ホイト」(乞食)と「マロウド」(客人)に目をつけていたのに対して、折口信夫は「ホカヒビト」と「マレビト」に着目していていたことについてふれておいたが、これは、柳田国男と折口信夫における「神をめぐる視点」の考え方の差異についてふれているといってよい。
民俗学者の宮田登は、山折哲雄と同様に、柳田国男の「客人神」の考え方には限界があるとした。「賤民の芸で祝福を与えるという者は先祖の神という範疇に入らないのではないか」とする柳田国男の「客人神」の考え方に対して、折口信夫はこれを重視し、「日本の神道は外部から幸いをもたらす存在を祀るもの」で、「あくまで丁重にもてなすことによって幸いが広がっていく」(「差別観念・ケガレ意識を考える」)とし、「大道芸人と祖霊」を一緒にする考えを出したという。したがって、宮田登は、折口信夫にとって「外者歓待」と「民間伝承」は深くつながっていると説明し、「弘法大師伝説」はその一例だとし、「遊行聖」あるいは「毛坊主」などの民間の宗教者がその役割を果たしていたというのである。こうした人々は村の「お堂」や「庵」に一時的に「仮寓」して、そこで「霊魂」にかかわる、要するに、「占卜」や「呪い」を行っていたという。そのルーツは「陰陽師」であると言われており、「聖」は陰陽道の技術を習得していたようである。
ちなみに、陰陽師には、土御門の流派を継ぐ陰陽師の系統の人と、修験道の密教のいろいろな呪術を持ったまま住みついた人もいる。武蔵村山の陰陽師・指田摂津正藤詮は、『注解 指田日記 上巻』(武蔵村山市教育委員会)の中に「天保十四年(1843年)四月二十八日、藤詮は、土御門家の関八州陰陽家取締方改役阿川伊予正から呼出状を受け取り、翌日青梅宿で面会し、土御門家の代替りにより祝儀を上納するよう命じられた。藤詮が了承すると、直ちに仮許状が下付され、『摂津正』と名乗ることが許された」と記されている。したがって、指田摂津正藤詮は、土御門の流派を継ぐ陰陽師の系統の人なのではないかと推測する。
ただし、「弘法大師伝説」に登場する「乞食ミテエな坊さん」は、指田摂津正藤詮ではなく、どちらかと言えば「修験者」であるか、あるいは、共同体を震撼させる人間を超えた力を持つ存在だったのではないかと思う。陰陽師との関連で言えば「宿の者」として卑賤視された存在だったのではないかと推測することもできるだろう。「乞食ミテエな坊さん」がどのような存在であったかについては、伝説を読みひらく大切な観点であるため、論稿の後半に再び論じてみたいと思う。
中沢新一は、折口信夫の「まれびと」論には、二つの意味が込められているという。それは「共同体の『外』からやってくる『まれびと』の精霊は、いったいどういう『外』からやってくるのかということについて、折口自身が二つの考え方の道筋をあたえていた」(前掲書)からである。
一つめは、「魂のふるさと」から「まれびと」がやってくる、という考えである。折口信夫は『古代研究』の冒頭の「妣が国へ・常世へ」という文章で次のように書いている。
「十年前、熊野に旅して、光りを充つ真昼の海に突き出た大王个崎の突端に立つ時、遥かなる波路の果てに、わが魂のふるさとのある様な気がしてからなかつた。此をはかない詩人気どりの感傷と卑下する気には、今以ってなれない。此は是、嘗ては祖々の胸を煽り立てた懐郷心(のすたるぢい)の、間歇遺伝(あたゐずむ)として、現れたものではなからうか」(「妣が国へ・常世へ」)
折口信夫がここで言う「わが魂」とは「魂」のことだけでなく、中沢新一は「民族的な集合記憶」もさしていると考えた。つまり、折口信夫の言う「古代人」は「南方の海洋世界を自分たちの『魂のふるさと』」としているとし、中沢新一は折口信夫の考えを次のように読解する。
「このような民族的な集合記憶が、なんらかの手段をつうじて、現代のわたしたち日本人の『魂』のうちに貯蔵され、長い休眠期間に入っていたのだが、それがふとしたきっかけで間歇泉のように、折口信夫という近代人の心にほとばしり出たのである。しかもそれは『妣が国』と呼ばれているように、母親の系統をつうじて伝えられる、一種の遺伝情報である。父親の系統は、社会制度や神話などの文化をつうじて、自分たちの記憶を伝えていこうとしている。しかし、母親の系統は無意識の記憶の中に貯蔵されて、文化よりもはるかに遠い時代までも、自分を伝えていくことができる」(『古代から来た未来人 折口信夫』)
折口信夫の言う「魂のふるさと」について、ここでは深追いせず、「まれびと」の二つ目の意味についてふれてみたい。
「『まれびと』のふたつめの意味は、『あの世』からの来訪者ということに関わっている。人間の知覚も思想も想像も及ばない、徹底的に異質な領域が『ある』ことを、『古代人』は知っていた。つまり、世界は生きている人間のつくっている『この世』だけでできているのではなく、すでに死者となった者やこれから生まれてくる生命の住処である『あの世』または『他界』もまた、世界を構成する重要な半分であることを、『古代人』たちは信じて疑わなかったのである」(前掲書)
中沢新一は、折口信夫の「まれびと」とは「『あの世』と『この世』をつなぐ通路」のことを意味していたという。折口信夫は以上のような「まれびと」論をたんに抽象概念として打ち出すだけでなく、その根拠を石垣島の「マンガマの祭り」に看取していたこともよく知られている。折口信夫の炯眼は見事であるといってよい。 続く
(山田 育男)
ムレヤマ伝説の謎 ~周縁に生きる人々~ 連載第6回
第一章 弘法大師の伝説 ~外者歓待~(承前)
巡遊伶人・旅芸人・門つけ芸人・まれびと
民俗学者の折口信夫が「乞食者(ホカヒビト)」に着目したのは、『国文学の発生』(第二稿)に収録された「巡遊伶人の生活」という論文からである。折口信夫は「ほかひびとは、壽詞を唱へて室や殿のほかひなどした神事の職業化し、内容が分化し、藝道化したものを持つて廻つた。最古い旅藝人、門づけ藝者である言ふ事は、語原からして、誤りない想像と思ふ」と書いているように、一般には、「ホカヒ」は「乞食」と結びつけられ、「ホカヒビト」は「旅芸人」や「門つけ芸人」と同義とされている。ちなみに、これは平安の中頃からのことだとされている。
本来、「ホカヒ」とは「祝福すること」、すなわち、「寿命や豊作をことほぐし寿歌や寿詞」を意味し、そのような寿詞(よごと)を唱えて歩く職能者を「ホカビヒト」といった。
したがって、山折哲雄は以下のように整理する。
「乞食者」はかつて「山の幸」と「海の幸」による祝福をうたい歩く存在であり、折口信夫はそこに「巡遊伶人」の原初があったと考えた。「巡遊伶人」は奈良時代にいたって奉仁する神人(じにん)、まじないの治療をつかさどる呪禁師、あるいは諸種の芸人などへと分化したという。これらの古代的な「巡遊伶人」や「乞食者」の一群こそ、後世の演劇や演芸を発達させた原動力だったと折口信夫は主張したのだった。
中世以降は、「ホカヒビト」は業病を象徴とする「乞丐(かたい)」と結びつく。また、「癩病」の乞食を意味する「物吉(ものよし)」に接合させたという。「乞食」概念は零落の途を辿ることとなったと整理した後、山折哲雄は次のように述べている。
「(略)折口が強くひきつけられた論点は、この乞食者(ホカヒビト)が古くは、土地の精霊を代表する『山の神』と一体のものと表象されていたということである。すなわち「ホカヒビト」は山の神の資格で寿詞を語り歩き、山の神芸能と信仰を各地に宣伝して歩く漂白民の専門職能者であったという点である。
折口のいう山の神の観念の背後には、いうまでもなく「まれびと」の面影が揺曳しているであろう。『まれびと』は常世の国から訪れる遊行漂白の文化英雄(カルチャー・ヒーロー)であり、定着農耕民に祝福と繁栄をもたらす異世界からの来訪者であった。その意味において、折口の『乞食者』論が、遠くわが国上代の神話世界にまで想像の翼をのばすことによって、いわば宗教史と芸能史の交わる接点をくっきり浮き彫りにした意義はけっして少なくはないのである」(『乞食の精神誌』)
繰り返しになるが、さしあたって、ここで重要なことは、以下の六点であると思う。
一つめは、「ホカヒ」は「乞食」と結び付けられ、「ホカヒビト」は「旅芸人」や「門つけ芸人」と同義とされていたこと。二つめは、「ホカヒ」とは「祝福すること」、すなわち、「寿命や豊作をことほぐし寿歌や寿詞」を意味し、そのような寿詞(よごと)を唱えて歩く職能者を「ホカビヒト」といったこと。三つめは、奈良時代にいたって「巡遊伶人」は奉仁する神人(じにん)、まじないの治療をつかさどる呪禁師、あるいは諸種の芸人などへと分化し、これらの古代的な「巡遊伶人」や「乞食者」の一群こそ、後世の演劇や演芸を発達させた原動力だったと折口信夫は主張したこと。四つめは、この乞食者(ホカヒビト)が古くは、土地の精霊を代表する『山の神』と一体のものと表象されていたこと。五つめは、山の神の観念の背後には「まれびと」の面影が揺曳していること。六つめは、『まれびと』は常世の国から訪れ、定着農耕民に祝福と繁栄をもたらす異世界からの来訪者であったこと、である。
乞食は流浪から流浪の旅の中で共同体を訪れ、戸口の前、人々の前で「神」を演じ、神の託言を伝えた。乞食は異形の遍歴者であるゆえに、定住民によって侮蔑と賤視の対象とされたにもかかわらず、一方で、「異人」しての乞食は「神」を演じる来訪者として畏敬の対象とされたのである。山折哲雄によれば、中世以降、「巡遊伶人」は「非人乞食」や「乞食法師」の烙印を押され、「乞食」と「神」の分離が進行し、「畏怖の感情」と「賤視のまなざし」の隔離がはじまったという。
この論稿の中で着目したいことは、定住民によって侮蔑と賤視の対象であったにもかかわらず、「神」を演じる来訪者として畏敬の対象であった「乞食者」の可能性の中心を読みひらくことであり、折口信夫の主張する「まれびと」の考え方の評価を通して「周縁に生きる人々」のとらえ直しをはかっていくことである。そのためには、折口信夫の「まれびと」の考え方や、沖浦和光の論じる「旅芸人」の考え方を整理する必要があるだろう。そのことを通してはじめて「弘法大師の貰エ水」という話の中で、村人が弘法大師を「乞食ミテエな坊さん」と呼んでいたこと、話の場所が「宿」であること、言い換えれば、来訪者のとらえ方や、話の設定場所にも看過できない「何か」の意味合いが見えてくるのではないかと思うのである。 続く
(山田育男)
ムレヤマ伝説の謎 ~周縁に生きる人々~ 連載 第5回
第一章 弘法大師の伝説 ~外者歓待~(承前)
「弘法大師の貰エ水」という話
武蔵村山の『口頭伝承』には「弘法大師の貰エ水(宿)」という話が収録されている。短いので、以下に全文を引用しよう。
「昔、コケエラに乞食ミテエな坊さんがやってきてよう。『水をくれえ』ッてゆうだァケンド、その坊さんが初めに寄ったァとこじゃあ、水をヤンなかったンだァと。ダァカラ、ソケエラじゃあ、いくら井戸堀ったって、ちっとも水がでやァしねえ。ソン次に坊さんが寄ったァとこじゃあ、水をやったンで、チットンベエ井戸堀りゃあ、直ぐに水が出ンだァよ。その坊さん、実ァ、弘法大師だったァだァと。この話のコタア、コケエラじゃあ、弘法大師の貰エ水ッて言い伝エられてンだァよ。」(『口頭伝承』)
武蔵村山の土地のことばで語られているため、少しわかりにくいところもあるが、「弘法大師の清水」と類似した内容の話である。この話の特徴は、弘法大師伝説の二つの側面を持っている。一つめは、弘法大師が立ち寄ったところで水を求めたら断られ、そのことによって井戸から水が出なくなったこと、二つめは、弘法大師が次に立ち寄ったところではすぐに水を持ってきてもらったので、井戸から水が出たこと、である。伝説の両側面が話にバランスよく内包されているのである。また、注目すべきことは、村人は弘法大師を「乞食ミテエな坊さん」と呼んでいたこと、話の場所が「宿」であること、である。来訪者のとらえ方や、話の設定場所にも看過できない「何か」があるように思う。要するに、この話をたんに水に対する尊重心の説話として捉えるわけにはいない「何か」があるということなのである。
弘法大師伝説の二つの側面から言えば、民俗学者・神話学者の松本信広は『日本神話の研究』に収録されている「外者歓待伝説考」の中で、柳田国男が「弘法大師の貰い水」をすでに『日本伝説集』の中で考察していることについてふれ、以下のように述べている。
「これは悪い婆と良い婆とが、たった一杯の水を惜んだか与えたかによって、片方はいつまでも井戸の水が赤くて飲まれず、他の片方は非常に良い水を弘法大使から貰ったという類の伝承である。霜月二十三日の晩に国中の村々を巡り、小豆の粥をもって祭られただいしさまという神ありしこと、人間の幸不幸はこういう神さまに対するわれわれの行いの正しいか正しくないかによって定まるという、古風な考え方が、かかる話の基礎になっておるらしいと、柳田国男先生は考証されておる(柳田国男『日本伝説集』三五頁-六八頁)。」
松本信弘によれば、柳田国男の考察は、小豆の粥を持って祭られた弘法大師という神があったこと、神様への行いによって人の幸不幸や正しい正しくないことが定まること、伝説の話には古風な考え方が基礎になっているらしいこと、である。「神様への行いによって人の幸不幸や正しい正しくないことが定まること」というのは、さきに述べておいた、「よそから来た人を丁寧にもてなすことによって幸いが得られるという、一つの慣習」、「よそ者だからといって、全面的に排除せず、受け入れて、丁寧にもてなすことで、『災厄』から免れよう」とする「外者歓待」の考え方が示されているのだと思う。
柳田国男の考察で想起するのは、『食物と心臓』に収録された「モノモラヒの話」である。「モノモラヒ」の言葉には、「瞼にできる腫れもの」と「門戸に立つ物乞い」という意味が含まりており、「眼病」と「乞食行為」には何が関係しているのかというのが柳田国男の疑問であった。宗教学者の山折哲雄は『乞食の精神誌』の中で、柳田国男が目をつけたことを詳細に論じている。「柳田がとくに目をつけたのが『ホイト』(乞食)と『マロウト』(客人)の二つの用例であった」と述べる。要点を整理すると、「モノモラヒの病を治す手段として、人の家の物を貰って食べる習慣があった」ことを第一に挙げている。例えば、岐阜県東部では近所のお茶を貰って飲むと病が治ったり、長野県では他人の家に行って障子の穴から手をさし入れて握飯を貰って食べるとメコジキが治ったり、あるいは長崎郊外の漁村では三夫婦がそろった家の仏様の飯を貰って食べるのを一つのおまじないにしたり、あるいはまた秋田県ではホエドを治すには三軒から物を貰うとよいと言われたりしているなどである。「モノモラヒ」という眼病はそこから呼ばれるようになったという。第二は、「物を貰う行為」に対して、「物を与える行為」がともなっていただろう点を挙げている。「分け与える者の側からすれば、物貰いにやってくる人間はたんなる『ホイト』(乞食)ではなくて、『マロウト』(客人)の性格を帯びている者」だからである。要するに、「ホイトはマロウトとして歓待され、ハレの宴につらなった」という。「モノモラヒの側からすれば、『モラヒの生活』をつづけることが、すなわち『信心の業』であった」のであり、「西国三十三番巡りという行脚の精進も四国の八十八札所巡りという宗教行為も、すべてこのような『乞食原理』に発するものであった」という。
山折哲雄は、柳田国男が「ホイト」の「社会的な意義や機能」を鋭く洞察したことを評価しつつ、「ホイト」の祖型に立ち返ってその心意に入ろうとしなかったことや、「ホカヒビト(乞食者)」の多面的な人間像を再構成することに消極的だったことを低く評価し、柳田国男の「マロウト」の考えに限界をみていた。
山折哲雄は、それに対して、折口信夫の「まれびと」の考えを対置させ、「乞食者(ホカヒビト)」について考察しており、それが実に興味深い。 続く
(山田 育男)
ムレヤマ伝説の謎 ~周縁に生きる人々~ 連載 第4回
第一章 弘法大師の伝説 ~外者歓待~(承前)
外者歓待・異人・まれびと
この論稿の中で何度か「外者歓待」「異人」という用語を使ってきたが、聞きなれない用語でもあるので、少し説明が必要かと思う。
世界宗教用語事典によれば、「外者歓待」とは「異郷人・客人を歓待する風習」のことをいう。宮田登の言葉を借用すれば「よそから来た人を丁寧にもてなすことによって幸いが得られるという、一つの慣習」のことである。したがって、よそ者だからといって、全面的に排除せず、受け入れて、丁寧にもてなすことで、「災厄」から免れようとする考え方なのである。後述する「弘法大師の貰エ水」は「外者歓待」の話と言えるだろう。世界宗教用語事典では「よそ者」のことを「異郷人」「客人」と説明しているが、宮田登によれば、実は、「神」や「霊魂」の問題に関係するものでもあるという。この点については後に詳細に論じたいと思っているので、ひとまず先に進もうと思う。
次に、民俗学者の赤坂憲雄は『異人論序説』の中で、「異人」についての画期的な考察を試みている。ちなみに、赤坂憲雄という人は、柳田国男の民俗学の可能性の中心を詳細にわたって論じている人で、非常に刺激的な著書を書かれている。柳田国男の民俗学に魅力を感じたのは赤坂憲雄の著書に出会ったことがきっかけで、私自身多くの影響を受けているといってよい。赤坂憲雄は柳田国男の思想の流れを「初期(新体詩人~農政学)/前期(「民俗学」以前)/後期(「民俗学」の体系化と確立)」に区分しており(『柳田国男の読み方 もう一つの民俗学は可能か』)、柳田国男が前期で論じてきた「山人論」「漂白民論」の系譜の詳細な考察・分析を試みでおり、とりわけ、『山の精神史』や『漂白の精神史』の考察・分析は見事だといってよい。
横道に逸れすぎたので、「異人」の定義に戻ろう。赤坂憲雄はゲオルグ・ジンメルの「橋と扉」を紹介しながら、「〈異人〉とは、共同体が外部に向けて開いた窓であり、扉である。世界の裂けめにおこれた門、である。内と外、此岸(こちら)と彼岸(あちら)にわたされた橋、といってもよい。媒介のための装置としての窓・扉・門・橋。そして、境界をつかさどる〈聖〉なる司祭=媒介者としての〈異人〉。知られざる外部を背に負う存在(もの)としての〈異人〉。内と外が交わるあわいに、〈異人〉たちの風景は茫々とひろがり、かぎりない物語群を分泌しつづける」と述べる。赤坂憲雄の文章を読みながら、民俗学者の折口信夫が『妣が国へ・常世へ』の中で「精霊」について論じたことを想起する。折口信夫のいう「精霊」とはあの世とこの世をつなぐ通路を開くものだった。折口信夫はそうした考えからさらに「まれびと」の発想へと転換した。「まれびと」論については後に詳細に論じようと思う。
ちなみに、ここで今確認しておきたいことは、赤坂憲雄は、「異人」というカテゴリーに包括したいと考える人々を、六つに種別したことである。参考までに以下に挙げておきたい。
①一時的に交渉をもつ漂白民
サンカ・遊牧民・浮浪民・日本中世の遊行聖・遍歴職人・土着以前の行商人・遊女[うかれめ]・小屋掛けの芝居一座・遍路乞食など
②定住民でありつつ一時的に他集団を訪れる来訪者
行商人・旅人・巡礼・赴任先の学校教師・海外派遣の商社マンや宣教師・疎開地の都会っ子など
③永続的な定着を思考する移住者
移民・亡命者・他部落からの婚入者・嫁・養子・継母・地域社会への転入者・転校生・閉鎖的なクラブへの入会志願者・新生児など
④秩序の周縁部に位置付けられたマージナル・マン
狂人・精神病者・身体障害者・非行少年・犯罪者・変人・怠け者・兵役忌避者・売春婦・性倒錯者・病人・アウトサイダー・異教信仰者・独身者・未亡人・孤児など
⑤外なる世界からの帰郷者
帰国する長期海外滞在者・故郷へ帰る出稼ぎ者・復員兵・海外帰国子女・帰国後のロビンソン・クルーソー・発見された旧日本兵など
⑥境外の民としてのバルバロス
未開人・野蛮人・エゾ・アイヌ・土蜘蛛・隼人・山人・鬼・河童など
赤坂憲雄は「異人」とは実体概念ではなく、すぐれて関係概念である、換言すれば、関係としての「異人」、「異人」としての関係であるという。つまり、「異人」は「ある種の社会的な関係の軋み、もしくはそこに生じる影が〈異人〉である」と言っている。
「関係としての〈異人〉・または〈異人〉としての関係の考察は、その社会を根柢にあってささえている隠蔽された制度を顕在化させることへとみちびく。みえざる制度は、社会の内側から異和性・逸脱性をおびたものを摘出し、秩序のかなたへと祀り棄てることを主たる役割とする。(中略)表層から隠され、内面化された供犠、あるいは、秩序がコスモスゆえにたえず〈異人〉を排除しつづけなければならぬ、その宿命自体を制度と称することもできる。」(『異人論序説』)
赤坂憲雄は「異人」は内部と外部のはざま、それゆえ境界に立つという。この境界をつかさどる「聖」なる司祭は、「聖」なる生け贄であると付け加え、「異人」の排除、あるいはまた供犠を通して、「たえざる境界更新のメカニズム」となると述べる。要するに、「異人」はつねに再生・反復し続ける両義性を持っているのである。
さて、武蔵村山の「弘法大師の貰エ水(S)」という話を考察する準備がだいぶ整ってきたので、それでは武蔵村山の「弘法大師の伝説」の考察に入ることにしたいと思う。続く
(山田 育男)
ムレヤマ伝説の謎 ~周縁に生きる人々~ 連載 第3回
第一章 弘法大師の伝説 ~外者歓待~(承前)
弘法大師の伝説をめぐって
文化人類学者・宗教学者の中沢新一は『雪片曲線論』の中で、空海(弘法大師)には密教の思想家、能書家にして名文家、山岳宗教家、流木土木の技術者としての多様な「顔」があると述べた後、空海を土木技術者として描く「弘法伝説」について以下のようにふれている。
「実際、よく知られている弘法伝説のひとつは、空海を土木技術者として描いている。それによれば、空海は四国の讃岐平野に万濃池と呼ばれることになる大きな溜池を掘り抜き、またそこに水を流し込むためにがんじょうな水路を造って、灌漑用水を確保しようとする大工事の技術指導を行った、ということになっている。この話はさらに拡がって、瀬戸内海ぞいの四国の平野に散在するおびただしい溜池にいたるまで、実は空海が堀り残していったものだという、魅力的な弘法伝説まで産んだ。この伝説が、どのような歴史的事実をもとにして語り出されたものなのか、正確なところはよくわからない」(『雪片曲線論』)
全国各地でよく知られている「弘法大師の清水」という伝説がある。こんな話だ。弘法大師が日本各地を行脚していた折、ある村で喉が渇いた弘法大師が老婆に水を所望する。老婆は遠方から水を運び、快く水を提供したので、弘法大師は水に不自由なこの土地に同情し、御礼に錫杖で地面をつついて清水を出したという話である。もちろん、これとは逆に、弘法大師の求めを断ったばかりに、泉が止まってしまったり、水が濁ってしまったりしたという話も伝えられている。中沢新一の言うように、「弘法大師の伝説」が「どのような歴史的事実をもとにして語り出されたものなのか」はわかっていない。
民俗学者の宮田登は「差別観念・ケガレ意識を考える」の中で、「弘法大師は本当は各地をあれほど巡遊したわけではなかった」と述べた後、あちこちをさまよい歩いたのは「遊行聖(ゆぎょうひじり)」だったと言っている。宮田登は「宗教的な意味を持った旅人」たちは「遊行聖のように旅から旅を重ねているうちに次第に村のなかにある時期に、主に江戸時代ですけれども、定着するようになってきた。その人々は半僧半俗、半分は俗人だというので、毛坊主という名前で表現される民間の宗教者でした。それは聖のなかから生まれてきた」とも付け加えている。また、宮田登は『ケガレの民俗誌 差別の文化的要因』の中では「聖たちは、行き倒れの死体を埋め、死者の霊魂が鎮まるように念仏を唱えて諸国を回った。全国に分布する弘法大師伝説は、そうした聖たちの活躍の跡を示している」と書いており、実際に弘法大師の登場する伝説であったかどうかについても疑問符を投げかけている。したがって、今や、弘法大師ではなく、遊行聖の方が有力な説になっている。とはいえ、宮田登は「弘法大師の伝説」のモチーフについては意義深く、積極的な意味合いとして受け止めている。この伝説を語るうえで、むしろ後者こそ、重要な観点であると言えるが、それは後に述べることにしよう。
まとめよう。弘法大師の伝説が本当にあったかどうかはわからないけれども、この伝説の解釈には奥深い意味が内包されているということ、それについて否定する人は誰もいないということは疑い得ないだろうと思う。
ただ、付け加えておきたいことがある。それは、「土木技術者としての弘法大師」ではなく、「山岳宗教者としての弘法大師」であれば伝説に登場する意味があるのではないかと考えるのである。中沢新一は『野ウサギの走り』に収録されている「山岳宗教者空海」の中で、次のように書いている。
「人をひとつの場所につなぎとめようとする定住と領土の思想を、山岳の思想は否定する。人を土地につなぎとめるのではなく、たえまなく流動していく力の流れの中にすすんで踏み込んでいくこと。領土によって大地を区切るのではなく、たえず領土の壁を食い破っていくような横断路によって人々をつないでいくこと。山岳は、日本の歴史と文化にとっての徹底した舞台裏として、多様性、横断性、速度、ブラックユーモアにみちた、まったく異質のスタイルをはぐくみつづけてきたのだ」(「山岳宗教者空海」)
弘法大師(空海)が引用文のようにつねにそうであろうとしたのであれば、これから論じる「伝説」の中の「弘法大師」は、「異人」として「外者歓待」というテーマを語りかける、きわめて重要な存在として私たちの前に立ち現れてくるであろうと思う。 続く
(山田 育男)
ムレヤマ伝説の謎 ~周縁に生きる人々~ 連載第2回
第一章 弘法大師の伝説
~外者歓待~
伝説と昔話の違い
これから武蔵村山の「三つの伝説」にふれていきたいと思っているが、武蔵村山の伝説と昔話は『武蔵村山の昔がたり 村山ことばによる口頭伝承』(以下は『口頭伝承』と略す)、『武蔵村山の昔がたり 村山ことばによる生活誌』(以下は『生活誌』と略す)『武蔵村山の民俗』(以下は『民俗』と略す)に収録されている話をベースにしている。ちなみに、武蔵村山の伝説と昔話は『口頭伝承』『生活誌』に多くの話がまとまって収録されており、武蔵村山の民俗研究・郷土研究をするうえで貴重な資料ばかりである。「昔がたり」というくらいなので、ここでは昔から伝えられた伝説や昔話などが語られている。そのため、何が伝説で、どれが昔話であるかは読み手の側が必要に応じて分類しなければならない。この論稿では、後述する「弘法大師の貰エ水」を「伝説」と位置付けているが(なぜなら、この話は全国でよく知られている「弘法大師の清水」という話に類似しているからだが)、『口頭伝承』では語りが「昔」からはじまっているので、「昔話」に区別されてしまう可能性がある。
昔から土地の人々によって語り継がれてきた伝説や昔話は、民俗学を研究するうえで貴重な手掛かりとなっているが、とはいえ、伝説と昔話は同じものではなく、両者は区別されており、根本的な違いがある。まず、その区別と違いからはじめよう。
伝説とは、ある時、特定の場所において起きたと信じられ語り伝えられた話のことをいう。語られる対象は、たとえば「山の伝説」「石の伝説」「木の伝説」「橋の伝説」「水の伝説」などである。伝説は証拠として残されているものがあるのである。一方、昔話は、「昔」「昔々」「大昔」ではじまり、「いつ」と明確に示さず、「時」は曖昧に語られるのがつねである。たとえば、「猿聟入り」「狐の恩返し」などがそれである。したがって、池田弥三郎の言葉を借用すれば、伝説は人々が「信じていること」であり、昔話は「信じていないこと」を聴き手は了承しながらする話なのである。
しかし、以上のように「伝説」と「昔話」を定義づけたところで、両者の特質が明確になったわけではない。定義づけだけでは不十分なのだ。そこで、別の視点での捉え方が必要になってくる。その視点を明確に据えた人は、民俗学者の柳田国男である。
柳田国男は『日本の伝説』の「はしがき」の中で、「伝説」と「昔話」の違いについて、非常に興味深い比喩で説明している。つまり、「昔話」は「動物」のようなものであり、「伝説」は「植物」のようなものであるという。いったいこれはどういう意味なのであろうか。
柳田国男はさらに続けてこう言っている。
「昔話は方々をあるくから、どこに行っても同じ姿を見かけることが出来ますが、伝説はある一つの土地に根を生やしていて、そういう常に成長して行くものであります。雀や頬白は皆同じ顔をしていますが、梅や椿は一本々々に枝振りが変っているので、見覚えがあります。可愛い昔話の小鳥は、多くは伝説の森、草叢の中で巣立ちますが、同時に香りの高いいろいろの伝説の種子や花粉を、遠くまで運んでいるのもかれ等であります。自然を愛する人たちは、常にこの二つの種類の昔の、配合と調和とを面白がりますが、学問はこれを二つに分けて、考えようとするのが始まりであります」(『日本の伝説』)
なるほど、たしかに「弘法大師の貰エ水」という話は別のところで「弘法大師の清水」という話として同じ姿を見かけことができる。少なくとも、武蔵村山の土地だけに根を生やしているわけではなく、全国各地に広がっていることを考えれば、「昔話」と位置付けられてしもおかしくはないだろう。しかし、ある話がある土地に根付くということは、言い換えれば、長い間、ある話が人々によって語り伝えられているということは、それなりの意味があるはずで、要するに、「弘法大師の貰エ水」という話が武蔵村山の土地に根を生やして今なお生きて存在し、成長していること自体が、たんなる「昔話」として位置付けることのできない「何か」があるはずである。そういう視点でとらえてみた時、「弘法大師の貰エ水」という話は「伝説」として位置付けたほうが腑に落ちるのではないかと思うのである。
柳田国男は、「植物にはそれを養うて大きくする力が、隠れてこの国の土と水と、日の光との中にある」のであり、「歴史はちょうどこれを利用して、栽培する農業のようなもの」なのだと述べている。定義だけではわかりにくい伝説の性質を「植物」という比喩を用いてものの本質を見事に言い当てている。もちろん、柳田国男は1900年前後から1910年前後にかけて合同詩集『抒情詩』にロマンティックな恋愛詩を寄せる「詩人」であったわけで(絓秀実・木藤亮太『アナキスト民俗学 尊王の官僚・柳田国男』)、民俗学者・詩人でもあった折口信夫とは比較にならないまでも、柳田国男の上の文章表現には「類.化性能」を駆使した側面がある。中沢新一に倣って言えば、「喩」は違うもの同士を類似性でつなぐ技術であるからだ(『古代から来た未来人 折口信夫』)。
話を戻せば、柳田国男が「伝説」を「植物」に喩えたことはきわめて重要な視点があると言わざるを得ない。つまり、伝説は植物のように成長する力があり、その力こそが土地柄の「風土」を生み出していくからである。「風土」はその土地に生きる人々の生活様式及び思考様式を探る原点の一つでもあるのである。
だとすれば、武蔵村山の「弘法大師の貰エ水」という話を「昔話」として位置付けるよりも、「伝説」として位置付けていく中で、武蔵村山という土地の原点となすものが見えてくるのではないかと思うのである。言い換えれば、「弘法大師の貰エ水」(「弘法大師の清水」)は武蔵村山の民俗・郷土の本質を知るうえで、きわめて重要な観点を言い当てているのではないか。それについては詳細に後述したいと思うが、さしあたって、ここで言えることは、「弘法大師の伝説」は「外者歓待」(宮田登「差別観念・ケガレ意識を考える」『日本歴史の中の被差別民』)という考え方にかかわっているということなのである。 続く
(山田 育男)
ムレヤマ伝説の謎 ~周縁に生きる人々~ 連載 第1回
はじめに
当法人は武蔵村山市を拠点に障がい者グループホームを運営しており、障がい者と共に地域で暮らしはじめてからすでに2年以上が経過した。たんにグループホームが武蔵村山市に「ある」ということだけでは「地域に暮らす」とは言えないので、この間、グループホームの入居者と一緒に武蔵村山市が開催するイベントや、お祭りなどになるべく足を運んだり、グループホーム内では季節にちなんだ行事にふれたりしてきた。しかし、武蔵村山市特有の宗教儀礼および習俗の痕跡を辿って入居者と共に学んでいく機会はほとんどなかったといってよい。
そこで、まずは障がい者グループホームを運営する責任者の私が武蔵村山市の「歴史・民俗・宗教」などを主体的に学びたいと考え、武蔵村山市の「歴史・民俗・宗教」に関する刊行物を丁寧に読みはじめてきたのである。
その中心となる刊行物は『武蔵村山市史・民俗編』(武蔵村山市編さん委員会)、『武蔵村山市史・通史編 上巻』、『武蔵村山市史・資料編 近世』、『武蔵村山の昔がたり・村山ことばによる口頭伝承』(武蔵村山市教育委員会)および『武蔵村山の昔がたり・村山ことばによる生活誌』(武蔵村山市教育委員会)、武蔵村山市史調査報告書『武蔵村山の民俗・その一』(武蔵村山市史編集委員会)、『武蔵村山の民俗・その二』『武蔵村山の民俗・その三』、『武蔵村山の民俗・その四』、指田摂津正藤詮『指田日記』であった。
以前から私は、民俗学・歴史学・文化人類学・哲学・文学・宗教学・芸能などに関心を寄せていたこともあって、民俗学では柳田国男、折口信夫、南方熊楠、宮本常一、赤坂憲雄、赤松啓介、宮田登、沖浦和光、筒井功、大塚英志、歴史学では網野善彦、阿部謹也、ミシェル・フーコー、文化人類学では山口昌男、中沢新一、西田正規、栗本慎一郎、クロード・レヴィ=ストロース、マルセル・モース、マリノウスキー、カール・ポランニー、などを読んできたので、武蔵村山市の民俗研究・郷土研究に取り組むことに苦痛を感じることもなく、むしろ、武蔵村山市の民俗資料を読み進めていくことは私にとって楽しい営みでもあったと言えるだろう。
繰り返すが、武蔵村山市の民俗研究および郷土研究の当初の目的は、あくまでも当法人が武蔵村山市を拠点に障がい者グループホームを運営しながら、入居者と共に「地域に暮らす」ことの意味合いを深めていくためであった。しかし、民俗資料・郷土資料をあらためて読み進めていく過程で、武蔵村山市の看過できない「謎」と向き合うことになってしまったとともに、その「謎」を探究することなしには、武蔵村山市の民俗研究・郷土研究は明らかにされないのではないかという疑問符が生じてきてしまったのである。
たしかに「武蔵村山市史・民俗編・通史編・資料編」「武蔵村山の昔がたり」「武蔵村山市史調査報告書」「指田日記」などは、民俗資料・郷土資料として貴重なものばかりである。多くの方々の協力があって充実した資料の作成や、武蔵村山市史を収集・整理することができたのだと思う。とりわけ、「武蔵村山市史・民俗編」「武蔵村山の昔がたり」「武蔵村山の民俗」の刊行物なしに武蔵村山市の「謎」は見出せなかったといってもよい。いや、それだからこそ、貴重な資料の痕跡から、あぶり出さねばならなかった事実があったはずなのである。もちろん、武蔵村山市の伝説や昔話などは口頭伝承であるため、それらの解釈は民俗資料・郷土資料を通して読み手の側に託されているわけで、そうであるならばなおさら、武蔵村山市の「謎」は文献の行間を読み解く中で明らかにするしかないのである。
ただし、これから書き進めていく論稿は、武蔵村山市の民俗資料・郷土資料をベースにするだけでなく、すでに様々な視点で論じられてきた民俗学・歴史学・文化人類学・宗教学などの文献も参考にしつつ、武蔵村山市の「謎」に肉薄していきたいと思う。
さしあたって、ここでは「三つの伝説」についてふれてみたいと思う。一つめは、「弘法大師の伝説」、二つめは「残堀川の伝説」、三つめは「二つの石の伝説」についてである。これらの伝説は「異人論」と深くかかわっているのではないかと私は推測する。そうした「異人たち」が武蔵村山市の民俗資料・郷土資料や、様々な分野での参考文献を通してどのように描かれているのかを整理し、そのことによって、「周縁に生きる人々」の存在を明らかにし、「ムレヤマ民俗学」の構築をめざしていきたいと思う。い (山田 育男)
※武蔵村山市の「村山」と言う地名の起こりは、狭山丘陵の峰々を指した「群山(むれやま)」が訛って「村山」になったと言われているが、武蔵村山市の民俗研究を進めていくうちに、「村山」より「群山」の方が「武蔵村山」という土地の特質を表しているのではないかと考え、私はこの論稿で「群山」を採用したいと思っていたが、ただし、私見であるため、「群山」を「ムレヤマ」とカタカナ表記にした。また、「武蔵村山」を「ムサシムレヤマ」と表記すれば誤解しやすいので、「ムレヤマ伝説」「ムレヤマ民俗学」以外には採用しなかった。私の論稿は、あくまで武蔵村山の民俗研究・郷土研究を脱構築する試みであるため、「もう一つの民俗学」の構築をめざしていることをあらかじめお断りしておきたい。