学校における「居場所」論再考
理事長 山田育男
第1章 生徒の「居場所」論再考 ~生徒の実態を捉え直す~
第1節 「居場所」の再定義
かつて私が勤務していた定時制高校に入学してきた生徒たちは、小学校・中学校で不登校になった生徒、生徒指導(服装指導等)で学校・教師に対する嫌悪感を持った反学校的な生徒、親に暴力的な言葉で傷つけられている生徒、様々な重しを背負った生徒、暴力的な価値観にとらわれ支配-被支配関係でしか物事をとらえられない生徒、自ら閉じこもることでしか自分を表現できなくなってしまった生徒、等であった。もちろん、見た目が明るく元気な生徒でも心の内面は繊細で脆弱な生徒もいるし、中学生時代には教師にあまり面倒を見てもらえなかった生徒もいる。入学してきた生徒のタイプも様々だった。そうした様々な生徒たちが学校を「居心地の良い場所」として感じられることは非常に大切なことである。したがって、学校を「自分の存在そのものを肯定できる場所」「自分とは相異なる存在へ配慮できる場所」として積極的に位置づけ意味づけていくことが必要である。とすれば、学校にとって「生徒の居場所」を基盤に据えた教育実践をめざしていくことが、今あらためて問い直されているといえるだろう。
現代を生きる子ども・若者は「居場所」を求めている。競争システムに侵された生活世界の中で、様々なストレスから解放されたいと望んでいる。NPO文化学習協同ネットワーク代表の佐藤洋作が言うように、子ども・若者にとって、①「ホッとして安らげる空間」、②「人と人との関係性が開かれていく空間」、③「自分探しの学びが生まれる空間」、といった「居場所」が希求されていることも事実である(「教育NPOによる若者たちの自立支援の試み」)。競争的な価値観に満ちた既存の学校は、教師からの監視や抑圧的なまなざしから自由にはなれない。したがって、子どもたちが安心でき、悩みや願いを丁寧に受け止め、自由な空間が保障されている「オルタナティヴな学びの場」を提供するやフリースクール等の存在がクローズアップされていることも首肯できる。
しかし、本来、子ども・若者にとっての「居場所」とはいったい何だったのだろうか。
佐藤一子は「子どもの居場所」について以下のように定義する。
「子どもの居場所という言葉は子どもが能動的に集まり、群れて心身を解放し、自治的、創造的に企てをおこなう時間・場所という本来の意味よりも、保健室や不登校のサポート施設のように、受容され、安心できる緊急避難の場、疲労を癒すために心のケアが求められる場所としての意味が強くなっている。」(「地域社会における子どもの居場所づくり」『岩波講座 現代の教育7』)
ここでおさえておきたいことは、佐藤一子は「居場所」の本来の意味を「子どもが能動的に集まり、群れて心身を解放し、自治的、創造的に企てを行う時間・場所」であると定義しているということである。佐藤一子は、後者の意味よりも前者の意味を重視しており、問題は今、前者の意味が喪失してしまっているということなのだ。では、佐藤一子の定義する後者の「居場所」を強調すればいったいどうなるだろうか。鈴木聡は、青年・子どもたちは「社会的自立」のために「家族にかかえられ、親に依存し続けざるをえなくな」り、「安心と癒しの場としての学校」は「学校の家族化をもたらしかねない問題性を孕んでいる」と述べる。そして、「学校から社会から閉ざし疑似家族化してしまう」ことは、「青年を、家族と学校の関係世界の中心に封じ込めてしまう」という。鈴木聡は、今日の学校の論調がどちらかといえば後者の「居場所」にシフトしていることを指摘し、青年・子どもたちの社会的自立を阻害していると警告する。(『世代サイクルと学校文化』日本エディタースクール出版社)。
もちろん、生徒の抱えている内面の問題を聴いたり受けとめたりすることは、生徒という個人が自立していくうえで大切なプロセスである。また、家庭環境に恵まれない生徒にとって学校の教師は「愛されるはずだったはずなのに愛されなかった親」との関係を修復できる「擬似的関係性」の役割も果たしている。人は、自立するためには一度は愛されなければならない。しかし、たんに聴いたり受けとめたりするだけでは生徒の依存心ばかりが高まり、現実を直視できない自己が形成されてしまう。しかし、突き放すだけでは生徒は自立できないし、学校や社会を信用しなくなるだろう。この矛盾をどう克服していくかが、「居場所」の再定義のカギとなるだろうが、そのためには、今日、子ども・若者がどのような社会的現実と向き合っているかをまず考察しなければならない。
第2節 「移行期」を生きる生徒たち
後期中等教育の目標は、近い将来大人になっていく生徒たちの「社会的自立」を指導・支援することである。しかし、今日の日本の生徒たちが自立した大人になっていくプロセスは多様化しつつあり、生徒たちが社会的現実と向き合えば向き合うほど、非常に困難な状況に追いやられてしまっている。それはいったいなぜか。
「家族と学校のまるがかえによるフルタイムの教育期間を一定期間経過して、そのままただちに職場まるがかえのフルタイム雇用へ移るというパターンは、もはや決してメインストリーム(標準)ではなくなっている。家族と学校まるがかえのフルタイムの教育機関を〈学童期〉と呼ぶとすれば、〈学童期〉を脱してから自立した大人になるまでの間に、これからの青年は実に多様な移行局面を通過していくことになる。」(鈴木聡『世代サイクルと学校文化』)
鈴木聡は、その直接的な背景を以下の3点にまとめる。
①従来の終身雇用型の「標準労働者」像が崩壊した。
②青年たちは、フルタイム雇用機会の縮小の中で、学校卒業後、不安定な就労形態を長期的にわたり続けながら、社会をわたっている。
③青年たちは、高校や大学などに身を置きながらも、実質的には「潜在的失業者」として手応えの感じられない生活をしている。
鈴木は、学校に籍がある・ないにかかわらず、①②③を生きる青年たちを、「移行期」として捉え、今日の中学生・高校生たちは「卒業⇒フルタイム雇用」というメインストリームの崩壊を感じ取ってしまっていると述べる。要するに、中学・高校段階の選抜進行の中で、生徒たちは「移行期」へとはじき出されてしまっているということ、そして、そうした状況にあるにもかかわらず、家族と学校まるがかえの〈学童期〉という社会的に従属的な地位に生徒たちをおしとどめてしまうことが、生徒をいっそう自立した社会人になることを困難なものにしている、というのだ。今日の子ども・青年にとって、大衆消費文化は氾濫してはいても、手ごたえのある社会というものはなく、あるのは家族と学校だけである。そうなればよりいっそう社会的自立をするためには家族にかかえられ、親に依存せざるをえないだろう。いや、さらに深刻なことは、依存する親さえも存在しない生徒たちがますます増えてきているという事実があるということだ。
以上の事情を踏まえた場合、今日の後期中等教育の在り方とは一体どういうものになってくるであろうか。
いや、問いや結論を急いではいけない。問いを立てるには、生徒像を立体的に捉えていくところから始めなくてはならない。一方的な捉え方では、事の本質に肉薄することができない。したがって、第3節では、生徒たちが生きる社会やそれにともなって生徒の「個」のありようが時代によってどう変化していったかの構造(事象の構造化)を捉え直してみたい。
第3節 生徒の「個」の変容
子どもが変わった、と言われてすでに久しい。「生徒が見えなくなった」「生徒が授業でまったく学ぼうとしなくなった」と表現する教師たちの声をよく聞くようになった。その言葉の裏には、「生徒をどう捉え、どう対処(対応)したらいいのか」がわからなくなったことを示している。わからなくなっているのは、社会の構造がどう変化し、生徒の「個」のありようがどう変容しているか気がついていないか、あるいは、「子どもは決して変わっていない」と頑なに信じ続けているかのどちらかであろう。そうした人たちは、教育の絶対性や普遍性をまったく疑うことなく、生徒を捉えようとしているのかもしれない。しかし、こうした視点では、学校・生徒を一面的に捉えているだけで、学校・生徒の本質を見逃している。子ども・若者問題は一元的には語れないほど、奥が深い。私たちに問われているのは、様々な見方で生徒を捉え直すことで、学校や教育がどう見えてくるのか、を思考することなのである。換言すれば、今日の生徒の「個」が社会システムや経済システムの中でいかに自立しはじめたかを構造的に捉え直せるかが、今必要なのである。
そこで、次は、生徒の「個」の変容について整理するところからはじめる。そのために参考になったのが、プロ教師の会(埼玉教育塾)・諏訪哲二のディスクールであった。諏訪哲二は埼玉県立高校で40年間教員をされていた人であり、多数の著作を出され、「子どもの実態がどうなっているのか」についての現場の教師の考えを一貫して提起し続けてきた人である。諏訪哲二は実に示唆的な見解を述べている。整理してみよう。
諏訪哲二は、日本の子ども・若者問題を論じる際、戦後を①「農業社会的」、②「産業社会的」、③「消費社会的」、の3つの段階に区分する(『学校はなぜ壊れたか』『オレ様化する子どもたち』『学校のモンスター』)。まとめると以下のようになる。
(1)農業社会的な生徒たち
①は1960年(昭和35年)ぐらいまでの時期をさす。この時期は、生活様式や民俗、精神生活が「農業社会的」であった。故郷としての農村があり、都市にも共同体的な気風と生活様式が残っていた。
この頃の子どもは、世界や世の中についての情報を持たないで、学校へ入ってきた。子どもたちは家庭での「しつけ」や養育を通じて、親や大人たちがどのような「子ども」を要求しているかを感じ取り、理解し、それに合わせるように自己を構成していた。
明治以降から1960年までは、学校は家庭や地域の「上」に位置していた。学校は「お上」であり、住民はその導きに従うべきものであり、国民形成において強い指導的役割を果たすべきものと社会的に認知されていた。要するに、「従うべき」という姿勢が理解できる共同体的なものがあった時期である。
(2)産業社会的な生徒たち
②は、1960年以降、子どもが「産業社会的」になってくる。家庭のテレビの浸透と家庭生活の商品経済化が「個」の自立を促す。決定的なのは、情報メディア、とりわけテレビの与えた影響とお金の力、である。テレビとお金が子どもの「個」の意識を形成していく。「個」の自立とは、家族や学校などの共同体的なものから精神的に離脱していくことを意味する。個人主義的であり、社会のことより自分の「個」の利益や関心を大切にしていた。これから生徒たちは教師への反発や違和を隠さなくなりはじめる。市民社会・経済社会が優先となり、バラバラのむきだしの経済主体としての「個」が登場してきた。
情報メディアとお金の発するメッセージによって、子どもは社会的に自立(1人前の大人)する前に、すでに「個」を「消費主体」として自立させている。「個」が自立するとは、この「従うべき」という姿勢が消えてくる。そして、すべてにおいて生徒の「この私」が受け入れるか、受け入れないかを判断するようになった。
(3)消費社会的な生徒たち
③は1975年(昭和50年)頃の時期である。1970年代に入り、世の中は世間から個人の利益や関心を重視する市民社会へと移行していく。1975年には高校進学率が92%に達し、「大衆教育社会」(苅谷剛彦)の時代に入る。
この時期から、子どもたちの「個」のありようが従来と根本的に変わった。「個」の自由という観念が経済の発展にともなってどんどん広がっていく。子どもたちは社会的なもの、経済や社会意識によって影響を受けるようになる。そして、「個」の利害や損得ですべてが決まるという考えをするようになる。かつて学校へ行くとか高校を卒業するということは、人間的に成長するとか、社会に役立つような力を受け取るといった「公共」的な要素が含まれていた。「公共」的な教育を受けるという観念が消え失せて、ただ自分の利益のために学校へ行くという意識になっていった。「お上」と学校は、住民たちの「私」的要求に合うように学校を変えていった。教師と生徒の共同体的なつながりが崩れて、市民社会的な「個」と「個」のつながりのようになった。生徒は社会性を脱ぎ棄て、それぞれの「自己」に閉じこもるようになった。
1980年代中葉、個体(自分)のままであり続けたい子どもとの衝突が発生する。「消費社会的」段階に入り、大人が予測するのとは異なった子どもや生徒の在り方が示されるようになっていった。生徒は教師の言うことを聞かなくなり、勉強をしなくなっていく。
私たちはみんなのものや人に対する見方の基準を持っている。人間観や世界観ともいうべきものがある。教師たちがその役割上持つ価値観もあれば、生徒たちがその立場上持つ価値観もある。肝心なことは、「消費社会的」段階に入り、それを持つ一人ひとりが自分一人だけの「価値」だと思わないことである。つまり、自分の思っていること、自分の判断していることはほかのみんなにも適用するはすだとみんなが思うようになった。
以上が諏訪哲二の整理する戦後の子ども・若者を捉えるための3つの段階区分である。
さて、次に、この「消費社会的」な生徒たちは、1970年以降から現代思想の中で議論された「価値相対主義」の考え方と何が同一で、何が異なっているのかを考察する。なぜなら、それが把握できなければ、教師と生徒の、生徒と生徒の「関係性」が捉えられないからである。
(4)価値相対主義との同一性と差異
小阪修平は『現代思想のゆくえ』の中で、1970年前後はそれまでの価値観が大きく揺すぶられた時代だと振り返り、とりわけマスメディアで通用するような価値観が飛躍的に変わったと述べている。そして、現代社会で発達したメディアは、人々を「イメージ」の網の目の中に生きるようにシステムを作り上げているという。消費社会の中では、人々は確かなものがない、という不安感、人々が実体を信じられなくなっていく中に現代がある。また、この時期から一つの考え方を「これが正しい」と言えなくなり、「真理はない」という相対主義の時代に入ることによって、生活の中に「価値相対主義」(自分は自分、他人は他人という考え方)が忍びこみはじめたと小阪は整理している。こうした小阪の論点を諏訪との論点で比較するとどう見えてくるか。
小阪と諏訪は、情報メディア(マスメディア)による価値観の変容が人の「個」のありようを変化させたとする視点では一致している。また、一人ひとりの価値観が多様化し、絶対的真理を相手に押しつけていくことができないこともとりあえずは共通している。これを学校のディスクールで考えれば、教師と生徒の価値観は「関係の立場性」によって異なっているし、お互いに共有した文化コードや社会コードで生きているわけではない。教師の一方的な「正しさ」を押し付けるわけにはいかないし、押し付けたところで生徒に「うざい」と一蹴されてしまう。生徒にとって教師(教師にとって生徒)はまったく同じ規則を共有しない(まったくわけがわからない)「他者」なのだと言えるだろう。また、(自分は自分、他人は他人という考えの)「価値相対主義の人々」は自分と他人を「つなぐコード」をまったく持たず、「自分」だけがあるとする立場である。この視点も小阪と諏訪は一致する。つまり、生徒たちの「言語ゲーム」がすでに出来上がってしまっている。しかし、異なる相手の価値観にまったく無関心であり続ける「他者」の現れ方をしているのが「価値相対主義の人々」なのに対して、自分が持つ価値が自分だけの価値だと思っていない、自分の思っていること、自分の判断していることは他の人もそう思っている「他者」の現れ方をするのが「消費社会的」な生徒たちなのである。前者と後者では、「他者性」が異なっているということである。後者はむしろ「自分」だけが充足し、「自我」が肥大化され、本来生徒は価値観が違うにもかかわらず、結果的に生徒は「差異」を消去し、同一化しまっているのだ。「同一性」とは「AはAだ」「正しいものは正しいものだ」ということだ。したがって、「同一性」は、「真理」「普遍」を追求することである。これは「価値相対主義」と決定的な差異なのではないかと思う。
自分の思っていること、自分の判断していることは他の人もそう思っていると感じることは、ある意味で、自分の思っていることが「真理」だと思わないと信じ込めないことだ。だからこそ、生徒は教師の注意(授業中の生徒の私語など)を「押しつけ」として受け取り、反発するのである。消費社会的な生徒たちは、自分について「外」から批評・批判されことを拒む。さも自分のプライドを傷つけられたかのように考え、「キレ」はじめ、教師と「トラブル」を起こしてしまうのである(生徒側からすれば、教師がトラブルを起こしたと思っている)。したがって、こうした生徒たちに対して注意をする場合、かつて諏訪は「一種のサジェスチョン」として生徒を注意したそうだ。「一種のサジェスチョン」であれば生徒は聞く耳を持ち、生徒本人に判断がまかせられ、生徒の主体の自由が確保される。こうすれば生徒のプライドは傷つけないというわけだ。価値観を押し付けるのではなく、価値観を「提示する」ということだろう。
また、都立高校教師・喜入克は、こう述べる。
「教師は子どもにタテマエを押しつける『カベ』ではなく、その子どもの行動が人からどう見えるかを映す『鏡』になるのだ。しかもそれは、あくまで私という個人の『鏡』である。
だから、『私には君の姿がこのように見える』という言い方を最後まで貫く。そうすることで、子どもが自分で思い込んでいるものとは異なった自画像を、映し出す。すると、子どもは『そういう見方もあるのか』と気づき、それを受け止めていく場合も多いのである。」(『叱れない教師、逃げる生徒』)
プロ教師の会の喜入は諏訪と同様、教師の価値観を押し付けず、「提示」することにとどめている。つまり、教師は生徒に「異なった自画像」を提示し、生徒が人からどう見られているのかを映し出していく存在なのである。教師が(昔よく言われたような意味ではない)「鏡」になることで、自分とは異なる価値観があることを想像させる。また、生徒の行為も本人の判断にまかせるわけだから、生徒のプライドも傷つけないですむだろう。しかも、「言語ゲーム」がすでに確立されてしまった生徒たちには、自分たちの価値観が「客観的」なものではなく、あくまでも「主観的」でしかないということを気付かせるきっかけにもなる。
(5)「動物化」する消費社会的な生徒たち
ところで、ヘーゲル研究家のアレクサンドル・コジェーヴは『ヘーゲル読解入門』の中で、戦後のアメリカで台頭してきた消費者の姿を「動物」と呼んだ。人間が人間であるためには、与えられた環境を否定する行動がなければならない。
対して、動物は、つねに自然と調和して生きている。したがって、消費者の「ニーズ」をそのまま満たす商品に囲まれ、またメディアが要求するままにモードが変わっていく。戦後アメリカの消費社会は、人間的というよりむしろ「動物的」と呼ばれることになる。
これは別に揶揄でもアイロニーでもないが、コジェーヴの呼ぶ「動物」は、そのまま「消費社会的な生徒たち」の姿にも当てはまるのではないかと思う。学校や教師はかつてのように権威もなければ威厳もないわけだから、学校文化を生徒にそのまま押しつけることもできない。従来型の学校では、生徒は教師の指導をすり抜け、逃げていく。挙句、生徒は知らぬ間に退学していく。生徒にとって学校はもはや環境を否定する行動ができない機関になり、生徒は生徒の「ニーズ」に合った学校に調和して生きているだけになる。これは冗談ではなく、現実である。
※以上の「動物化」の考え方は、東浩紀の『動物化するポストモダン』、諏訪哲二の論を参考にされたい。
(6)集団の在り方の変化
生徒の「個」のありようの変容にともなって、生徒たちの集団の在り方もたしかに変わった。それは新しい「共同性」のありようによって、新しい問題が様々なかたちで生じてきているということでもある。プロ教師の会の喜入克が「プロ教師の実践スタイルをいかに受け継ぐか」の中で明快に分析しているように、生徒たちにとっての「規範」は「『この私』の自己決定であり、誰もそこに口を差し挟むべきではない、ということである。それほどまでに、『この私』は神聖にして不可侵であるということが、彼らの間では暗黙の了解になっている」のである。つまり、今日の生徒たちの人間関係は、「相手の気持ちに立ち入らないように、相手にとって大切な部分には決してふれないように、大変な労力を費やして配慮し合う」のである。もはや、「固有名」として生きている生徒たちには、「この私」を捨象し、しかも否応なく「他者」とかかわっていくような「集団生活」など「うざい」ということなのだ。
しかし、人間の「自我」は外部との接触においてはじめて形成される。諏訪哲二に倣って言えば、厳しい現実と何度も何度もぶつかることで、どうやったら自分の思い通りになるのか、自分の立ち現われ方をどうすればつねに自分のまわりとのバランスを取ることができるのかを考えていくのである。それは同時に、自分とは相異なる「他者」との距離の取り方を学んでいくということでもある。
人間は「社会的存在」である。だが、今日の生徒たちは、人と人との「関係性」をきり結ぶスキルがない。言い換えれば、「関係性」の距離の取り方が非常に苦手である。いうまでもなく、生徒たちは生徒と生徒の「関係性」を通して、お互いを傷つけ合い、つながり合うしかない。L・ベラックを引くまでもなく、「人間」は、そうした傷つけ合いを繰り返す中で、お互いの「距離」の取り方を学び、「大人」になっていくのである。繰り返すが、人間の「自我」は、自分とは相異なる「存在」を認めてはじめて形成される。だが、人と人との「関係性」をきり結ぶスキルを身につけていない今日の生徒たちの「自我」はただ「肥大化」(諏訪哲二)されるだけである。したがって、教育困難校や底辺校の生徒たちの「個」はむきだしのまま浮遊しているといってよい。
異質な者同士が出会える「場」としての「公共性」が叫ばれる今日、私たちは学校現場の中で、人と人との「関係性」をきり結ぶスキルのない生徒たちに、いかに異質な者が出会える「場」を設定できるか。それが生徒の「居場所」を確保するカギとなるだろう。
第2章 学校アジール構想を描く
第1節 教師権力の定義 ~プロ教師の会における教師権力論~
(1)プロ教師の会における教師権力の定義
世間の教師・学校バッシングに曝されながら、しかしそれでも反発して主張し続け、戦後日本以来、はじめて教師自身の自覚した論を展開していったのが「プロ教師の会」であることはいうまでもない。彼らの主張は、まず、進歩派のロマンティックな「自己欺瞞性」を批判するところからはじめた。つまり、こうである。
教師は教師である限り、「権力」や「権威」から逃れられない存在である。子どもに対して権力を行使せざるを得ないし、規律を要求せざるを得ない。教師とひととひととの「関係の絶対性」を深く認識しなればならず、決して教師と生徒の関係を順接的な関係であるなどと、とりちがえるべきではない。教育とは、教師と生徒との「差異」をいかに教えていくかにかかわっている。そして、この「差異」をしっかりと認識したうえで、いかにこの「差異」を乗り越えていくかが「教育実践」なのであり、まずこのことを前提としない教育的な営みは「実践」とは言えない。教師と生徒は「学校権力」を背負った関係でしかないということを自覚しなければならない。教師と生徒の「関係の立場性」はその背後に「権力」があるから起こり得る。教師はひとまず自分が「権力存在」なのだという自覚をしたうえで、はじめて「生徒とともに生きる」という「課題」を乗り越えていけるのだと、『イロニーとしての戦後教育』の諏訪哲二は書き付けた。
「どのように転んでも『権力存在』でしかない教師である私たちが、権力でありながらも権力を喰い破る闘いを、どう構築するか」(前掲書)
こうした自己否定的な教師の在り方は、教師と生徒の「権力的関係性」を解体させるカギにもなった。理想を安直に振りかざし、「教師と生徒は対等なのだ」といったところで、教師の欺瞞性は暴露されてしまう。生徒にとって物分りの良い教師であっても、それを逃れることはできない。要するに、生徒にとって物分りの良い「良心的教師」にも、その背後に「権力性」が隠蔽されているのではないか。ミシェル・フーコーの『性の歴史』を援用し、「生徒のために」「立ち直らせる」ために献身的に努力する「良心的教師」にも「牧人=司祭型権力」が働いていると証明したのは、『逃げ出した教師の学校論』を書いた中島浩籌であった。
要するに、生徒を規則で束縛する「管理主義教師」も、生徒のために献身的に努力する「良心的教師」も、実は「権力性」を背負っているのである。繰り返すが、教師は学校の中では「権力存在」なのである。それはもはや逃れようがない。
だが、今私たちにとって重要なことは、そうした意味での「権力性」をもう一度問い直し、別の意味を紡ぎ出していく時期ではないかと思う。たとえば、プロ教師の会・河上亮一の『学校崩壊』の次の文章は、今まで書き継がれてきた河上の主張の一貫性を読み取ることはできるが、同時に、私たちにある種の「異和」を感じさせる文章でもある。
「クラスという集団を安定させるためには、守るべき原則を無理やりにでも押しつけないといけないと思う。そして、あの教師は怖いと思わせるような、ある種の力がなければクラスを維持していくのは無理だろう。子どもは言葉で言うことを聞くわけではない。欲望にしたがって体が勝手に動いてしまうのでから、それを抑えてやらなければいけないのである。
(中略)
怖いからとりあえず黙っていなければならないとか、座っていなければならないということをくり返すなかで、自分の抑えつける力を少しずつつけるようにしなければならないのだ。」(河上亮一『学校崩壊』)
学校は子どもの社会的自立を促す場であり、したがって学校で「管理」を子どもに押しつけることは、当然の論理でさえある。いや、ある抑圧がなければ人間の自我は形成されない。現場でたたき上げたこうした河上亮一の論理を、私たちは現場の当事者として決して哄笑することができない。河上亮一は悲壮な決意で学校を守ろうとしている。それが正当な論理であればあるほど、私たちに立ち現われるこの「異和」は、オブセッションのようにつきまとってくるのだ。この「異和感」に対する驚きこそパラダイム・チェンジを引き起こし、教師権力を「脱構築」していくカギになるのではないだろうか。
(2)「学校権力」のディコンストラクティヴな運用方法
ところで、身体化された「教師性」を捨てることは、なにも教師の「権力性」を廃棄することではない。重要なことは、学校の「権力性」を発動させ、どこでそれを「ストップ」させるか、なのだ。では、「学校権力」を「ストップ」させる瞬間とはどんなときなのか。それは「集団指導訓練」によって教え育てられた生徒たちが自分のたちの空間の中で「権力」を握りはじめる瞬間である。つまり、生徒たちが自分たちで決定し、実行していくプロセスを築き上げる瞬間である。さらに重要なことは、教師の「権力性」はある一定のスタンス(まなざし)を持って生徒たちの前に立ちふさがるということだ。そうでなければ、生徒たちの「自治」は一向に機能しないだろう。自分たちの「空間」の中で「権限」を与えられた生徒たちが「権力」をきちんとふるうこと、それを他の生徒たちがしっかりと支持するということ。それが「自治」を形成させるキーポイントになる。「生徒たちが抱えた問題」を私たち教師はどんな「権力」を持ってしても介入することはできない。教師のかかわりが生徒の「自立への闘い」であればなおさら、「生徒たちが抱えた問題」を生徒たちに解決させるスタンスをとる必要があるだろう。そうしたなければ一向に子どもは「大人」になれない。
しかし、子どもが「大人」に成長するということは、ある種の「危険」を伴うことでもある。それはもはや逃れられない事実でもあろう。それゆえ、竹内常一の次の発言は重要だ。
「子どもの自己決定を保証するということは、子どもが過ちを犯す可能性を持つということを大人たちが自覚するということだ。否応なく犯す自分の罪を、自ら贖罪する能力を子どもに育てるのか。ここが教師の指導性であり、対話づくりの中身の確信になるだろう。罪の文化と社会正義を結びつけなければ、自治は成立しない。」
学校というのは、社会の中の「特別な場所」として位置づけられる。それは失敗することが許される場所である。言い換えれば、子どもたちの逸脱や失敗が許される、「実験場としての場所」なのである。こうした場所のことを、これから「学校アジール」と呼ぶことにしよう。言うまでもなく、こうした「場所」を生徒たちが獲得してはじめて「成長」していくのだ。教育が生徒たちの「社会的自立」を促す場であるのは、こうした意味においてであり、河上亮一のいうそれではない。私たちはいままで書き継がれてきた「学校・教師権力論」をズラして、「学校アジール論」を主張し、教育実践を展開していく時期にきたのではないだろうか。では、この「学校アジール」を構築するために、学校の教師はどのようなスタンスを取らなければならないのだろうか。
第2節 学校アジールの定義
教師はいかに「学校アジール」を構築することができるか。その第一歩は、教師の「権力性」を保持したまま、ズラしていくことである。今までの「権力性」は生徒たちに何かを「させる」ために機能していた。これからの「権力性」は、教師の「権力性」をひとまず明け渡していくことだ。「自分の教師性を捨てて、学校を子どもたちに明け渡していくこと」であり、「権力がないと明け渡せない」という自覚を教師側が持つということなのである(『脱「学級崩壊」宣言』)。こうした教師の振舞い、換言すれば、権力性のズラしこそ、「学校を守る」という行為なのではないか。
私たちが今考えなければならないことは、「アジール」の問題である。「アジール」とは「避難場所」という意味があるが、ここでは二つの意味として解釈したい。一つは、生徒たちの「逃げの空間」、つまり「居心地のよい場所」である。これは精神的なアジールだ。しかし、これだけでは「学校の家族化」をもたらしかねないし、社会的自立に至らない。一つ目を生徒に保障したら、次のステージを教師が用意することが必要だ。それは「生徒たちの問題を生徒たちで解決できる場所」、つまり「自分たちが自分たちの手で仕切っているという実感を持てる場所」、である。「学校アジール」を積極的に語るためには後者を強調することであり、これは「教師」の介入がなければ起こり得ない。教師の「権力性」の自覚は、「学校アジール」を確保し、生徒たちが仕切れる「特別な空間」を育てていくためにあるのだ。
第3節 権力の脱構築
(1)「親密圏」の必要性
私は20年ほど前、浦和商業高校定時制に勤務していた(かつて日本テレビ『テージセイ』で4週にわたって取り上げられた定時制高校)。ちょうど私が勤務する前年度から、生徒が相対的に大人しくなりはじめ、小学校・中学校の頃に不登校を経験したことのある生徒が全入学者の7割に達した。そこで浦和商業高校定時制(以下、浦商定と略す)の教師集団は、そうした生徒たちといかにかかわっていくかといった議論を徹底して行っていった。
浦商定の一致した方向性は、学校を生徒たちの「居場所」として位置づけることであった。だから、まず、職員室を開放し、不登校の生徒たちも学校に登校しやすい「場」にした。職員室は生徒たちタムロする場に変容し、今まで不登校だった生徒たちは授業には出ないが、学校の職員室にはいるといった状況がつくれるまでに至った。つまり、「職員室登校」である。さしあたりここで言いたいことは、生徒たちにとって学校が精神的な「アジール」(避難場所)になっているということである。私はこうした「場」のことを「親密圏」と名付けたい。
ところで、「親密圏」とは「穏やかな結びつき、折りに触れて訪ね合う友人たちの関係や議論・雑談を楽しむための『サロン』的な関係」(齊藤純一『公共性』)が成り立つような生徒たちだけの言説空間を意味する。「親密圏」での会話は、同じ価値を共有する者だけが集まってくるような空間であるため、閉じられた等質的なコミュニケーションとして映るかもしれない。だが、この「場」では、生徒たちのもろもろの情報や意見の交換を通じて、生徒たちが直面している「問題」への認識が深められる。ここで話し合われた事柄が、政治的な「場」に乗せられるというわけだ。
浦商定の「親密圏」は、「職員室」だけではない。「職員室」から自立して自分たちの「場」を持ち始めようとする生徒たちは「昇降口」に集まってくる。とりわけここには、暴力的な臭いを漂わせていた生徒たちや、中学校時代に教育研究所に通っていた不登校の生徒たちが年齢に関係なく集まり、この「場」で言説空間を仕切っていた生徒が全校のリーダーとして立ち上がった。生徒たちは、この「場」で自分たちの人生を語りはじめ、「学校がおれたちを変えたんだ」という「思い」を共有するに至った。さらに、後に生徒会執行部や卒業式実行委員会といった組織集団へと膨れ上がり、全校生徒が卒業していく生徒たちへの手づくりの「卒業式」を送った(浦和商業高校定時制四者協議会『学校がオレを変えた』を参照されたい)。
浦商定の教師集団は、生徒たちの「声」は生徒たちの「場」の中で取り上げてはじめて生かされるということを知っていたために、生徒たちだけの「場」を「アジール(聖域)」と位置づけ、無断で踏み込むことを拒んだ。もちろん、当然、生徒たちだけの空間は閉鎖的な空間である。それは危険を伴う空間でもある。だから、「まなざし」だけはしっかりとそそいでおいて、教師たちはその「場」から撤退していく。そんなスタンスをとった。
(2)権力を「脱構築」する
教師の「まなざし」はしっかりと生徒たちにそそがれつつ、その「場」から撤退していく。つまり、これは教師が持っている「権力」を生徒たちに明け渡すことを意味する。教師は「権力」を持つ存在だ。しかし、それを解体させるには、教師は教師の「権力性」を保持したまま、ズラする必要がある。
ズラすとは、教師の「権力」によって、生徒たちに限定した「場」を与えていくことであり、その「場」を見届けていくことである。生徒たちに「場」を与えていくということは、ハンナ・アレントに倣って言えば、教師側から「テーブル」を生徒たちの前に置くということである。「テーブル」を置くということは、なんらかの「権力」が働かないとできない。教師の「権力」を学校の中で発動させなければならないのは、生徒たちに「場」を与えるときこそ有効なのである。もちろん、「権力」を握るということは「責任」が問われることであり、また、「権力」には生徒や保護者からの信頼がなければならないことだ。つまり、教師集団のヘゲモニーに対する保護者のバックアップがなければ成立しないことでもあるだろう。大澤真幸は「教育内容にも生徒や親の意思を反映させることによって、権力への信頼や承認を下から形成することが可能になるはず」と述べているが、このことは、教師の「自己改造」を促す契機にもなるだろう。
(3)「親密圏」から「公共圏」へ
人は異質な者たちと出会う前に、一度、存在そのものを承認しお互いの価値を共有できる「たまり場」を必要とする。だが、いうまでもなく、ここには「抗争」の契機を孕んだ異質な「公共圏」は存在しない。この「たまり場」は、いくらお互いが共有し合える場だとしても、それは暫定的な場でしかない。なぜなら、同じ価値をお互いが共有していたとしても、その価値のとらえ方、考え方が同じ場の中で向き合えば、自然発生的に「差異」を生んでしまうからだ。その「差異」が発生したとき、「関係性」を切り結ぶことができない「かたまり」であればあるほど、お互いがお互いを排除する構図が生まれてしまう。
こうした構図が生まれてしまった「たまり場」は「暴力」と「抑圧」の空間になり、閉鎖的な空間へと転化せざるをえない。したがって、「親密圏」がどうかした後の結末は、かぎりなく危険が伴った空間に陥らざるをえないのだ。そのために、先刻から述べている教師の「まなざし」が必要になってくるのである。
そこで、この「たまり場」を「公共圏」に組み替えていく次の段階が必要になってくる。つまり、「親密圏」の中に「あなたの意見には同意できないけれど、あなたの存在は認める」といった異質なまなざしが存在しなければならないだろう。いや、そうした「まなざし」がないかぎり、自分たちの具体的な「存在そのもの」への配慮がどうしてできるだろうか。
生徒たちの具体的な「存在そのもの」を配慮することは、生徒たちの言葉に対して教師が応答していくことである。生徒たちとの合意は、複数の価値が妥協なくぶつかり合い、どうしても乗り越えることのできないところまでコンフリクトを引き起こした後で生まれてくる結果である。むろん、「親密圏」から「公共圏」へ組み替えていくのはこの瞬間を逃さないことにあるのだが、重要な視点は逆の視点を際立たせることにある。
重要なことは、齊藤純一の言うように、「不合意」に光をあてることである。教師側と生徒側の「不合意」を際立たせることである。だが、「公共圏」の中では「合意」した瞬間にそれが反転されてしまうわけだから、この「場」においては継続的な「対話」が必要とされてくる。生徒たちの「自己」が形成されていくような「装置」を、教師側が意図的につくり上げて必要に迫られているのではないだろうか。教師がこうした「場」を提供していくことは、生徒たちに「社会という学習プロセス」を教えていくことにほかならない。換言すれば、こうした「場」を設定することこそ、教師の「公的」な役割なのだといってもよい。
(4)教師の「公的」な役割とは何か
教師の「公的」な役割とは何か。この問いは、学校における「公」と「私」をめぐった問題に絡んでいる。それを説明するために、生活指導運動の中の伊藤・服部論争で問題になった「教師姿勢」について簡単に整理する。
伊藤和由は「学校における教師と生徒との関係は、まず『管理』から始まる。それこそが実践的リアリティーである」と言う。まず「公的スタイル」で生徒たちの前に立つこと。それが「支配的管理者」としての振る舞いである。「生徒理解」という名目での「私的領域」の介入などもってのほかだ。それが伊藤和由の教育姿勢である。
一方、服部明は、「私的領域にも極力踏み込まない」ことは個人指導の否定であり、「生徒たちとの共有している問題状況を考え、生き方を問い合う場が学校であることをわからせたいと思う時、『生徒を理解しようとする』ことは不可欠になる」と言う。つまり、服部明の教育姿勢は、生徒との私的関係を切り結んでいくことを通して成り立っているということなのだろう。
生徒の内面を支配する危険性から徹底して「公的スタイル」を振る舞うことにこだわる前者に対して、後者は生徒の内部に切り込めるチャンスがあるのなら「私的領域」の介入も辞さない立場だ。これはどう考えたって、両者は通ずるものはない。しかし、両者の教育姿勢の一要素を持つということはどういうことなのだろうか(両者の教育姿勢の良い視点を融合して考えた場合、どう見えてくるだろうか、といえばよいだろうか)。それが「公的」な役割にかかわる。関曠野の議論を考察してみよう。関は「教師は世代の人間的な交わりにかかわる教育者としてこそ、社会の未来にたいし責任をもつ真に公的な存在になるのではないでしょうか」(「教師の公的な役割とはなにか」)と言っているが、ここで述べている「真の公的な存在」は伊藤和由のそれとは異なることがわかるだろう。関は「学校は『公』であり教師も公的な存在でなくてはならない、だから、『私』である生徒は教師に従わなくてはならない、学校というシステムに子どもをはめこむのが『公』であるという考え方は圧倒的につよい」と述べているのだから、両者にはかなりの齟齬があるといってもよい。関はここで、ホッブスの示す「公」の論理とは対蹠的なジョン・ロックの議論を取り上げて、次のように説明している。
ジョン・ロックは、「正義」をめぐった論争を通してこそ「公」が成立し、「正義」と「真実」をめぐる論争の中で、人々は暫定的な「社会的同意」をつくり出すことができる、「社会のルール」を決めることができる、という議論を展開する。「公的なもの」は「正義」をめぐる論争を通して生み出される。何が「正義」であるかをめぐる万人の討論や論争は「公論」と呼ばれ、国家が真に公的なものとして振る舞っているかどうかは「公論」が裁定する。これが「公」だという自明のものはない。何が「公」であり、何が「私」であるかは「公論」が決める、というわけだ。もちろん、「公論」の中にはたえず「公」と「私」との緊張・対立がある。「論争から合意」が生まれ、「合意がまた論争」に発展し、というように、「公論」とは「ダイナミックなもの」なのである。「公論」としての「公」は本質的に「オープンで未完結」なものであるがゆえに、たえざる「修正・変更」が可能であり、「公」としてできあがったとしても「絶対不動」のものではない。むしろ、たえず「公論」によって生まれると同時に、「修正され変更されて」いくものなのである。ただ、重要なことは、何が「公」を修正していくかといえば、「公」と、対立的関係にある「私」だと関は述べる。「社会」自体は本質的に「学習プロセス」として成立しているのであり、たえず学習する「私」が集まってくる社会が「近代社会」であり、そうした学習の結果によって「公」の在り方がたえず修正されて変わっていくのだと付け加えている。実に示唆的な見解である。
学校側(公)と生徒側(私)とがお互いに承認し合う、相手を人格として承認し合うことができ、その承認のうえにある程度「パブリック」な意義を持った「同意」をつくり出せる「公論」のある「場」をあらかじめ用意されていることが不可欠である。問題は、学校側に「公」と「私」の「相克」と「緊張」に耐え得るだけの「覚悟」があるかなのである。「公」は「私」との「論争から合意」、あるいは「合意から論争へ」といった限りなき連続性によって決まってくる。ここでは絶対的な存在として「公」を生徒たちに押しつけることはできない。押しつけたとしても、「公」は「公論」のある「場」で「私」に審判されてしまうのである。では、こうした緊張関係のある学校づくりは可能だろうか。これを可能にした学校が、埼玉県立浦和商業高校定時制である。その教育実践のエッセンスを紹介し、検証してみようと思う。
第3章 埼玉県立浦和商業高校定時制の教育実践を検証する
第1節 後追い的生徒指導からの脱却
1992年以前まで、浦和商業高校定時制(以下浦商定時制と略す)は、教職員が「教育的意図」を持った集団として生徒に関わることがなかった。生徒が学校へ来なくなっても、「それは生徒自身の責任だ」とし、意識的に教員の態度が問われることがなかった。生徒数の急増期を迎える時期から減少する時期まで、怠学、暴力、暴走行為、破損、恐喝等の問題が学校内外に起こり、生活指導の内容は「後追い的生徒指導」に終始され、教員は問題を起こした生徒にどう対応するのか(どう処分するのか)といったことに追われ、頭を悩ませていた。
第2節 生徒が主人公の学校づくり
1993年秋、浦商定時制の教職員集団の間で「変化」が起こった。
その年、体育館で体育祭が行われていた。その時、体育祭を運営している実行委員会の生徒と、器物破損等によって家庭謹慎を繰り返していた生徒との間で「トラブル」が生じた。その「トラブル」をきっかけに、二つの問題が起きた。
①トラブルを引き起こした生徒に加勢した生徒たちが、体育祭のために作られた看板を壊したり、校長室の窓ガラスを割ったりした。
②体育祭の当日、本来はクラス発表で、(1週間以上も練習を重ねてきた)「和太鼓演奏」をするはずだったクラスが、その発表を反古された。
当時、浦商定時制は、少しずつ特別活動や生徒会活動を通して、「生活指導」を模索しはじめていた頃だった。前年度から体育祭クラススローガンづくりや仮装行列のパフォーマンスを発表するクラスが現れ出し、行事の活動を通して、クラスの仲間たちと様々な交わりができる機会が生まれていた。そうした生徒たち(4年生)がその年の秋の体育祭で教員の勧めもあり「和太鼓」の演奏をすることになり、毎晩遅くまで練習をしていた。しかし、その練習もむなしく、日の目を見ることがなかった。
2学期終了間近のある日、2人の生徒が授業中に「この授業をオレたちにくれないか。クラスで話し合いたいことがある」と言い、「予餞会で和太鼓を叩く」という提案をし、クラス討議で決定した。しかし、浦商定時制では予餞会は行われていなかった。ただ、このまま終わらせてよいのかという教員間の思いが「卒業式」で和太鼓を叩くということにつながった。
この太鼓の件以来、浦商定時制は「生徒が主人公の卒業式」に取り組むこととなった。つまり、卒業式の運営を生徒たちの手に委ね、①式の流れ、②司会、③音響、④照明、等に至る全体の運営を卒業式実行委員の生徒たちが取り組むようになり、それは廃校する今年度まで続いている。いわば「浦商定時制の『伝統』」として後輩に受け継がれている独自の「校風」がつくられていった。
ただもちろん、生徒たちの力で卒業式を運営するには、その手順を経験して理解していなとできないことだ。①実行委員会の運営方法、②原案作成、③レジュメの作り方、④役割分担、等、様々な「壁」にぶち当たる。したがって、教員は、自分たちで自分たちのことを決定する作法を教えていかなければいけなかった。要するに、教員の「指導性」が問われはじめた、ということだ。
「生徒が主人公の学校づくり」は、1993年度からはじまり、次年度、当時の生徒会長が全日制に乗り込み、「全日制・定時制合同文化祭」を提案。実行委員会が組織されて文化祭が動き出し、生徒たちの仕切る場を広げていく。
その後、「新入生歓迎会」「全校遠足」「芸術鑑賞会」「卒業生を送る会」等、生徒たちは様々な行事を作り上げ、「目的・方針づくり」からはじめ、取り組みを行っている。現在では、「卒業式」「入学式」「学校説明会」等、すべての進行を生徒たちが担うようになった。
第3節 教育課程自主編成 ~「生徒が主人公」から「学びの主人公」へ~
「生徒が主人公の学校づくり」から確かに生徒は育ち、素晴らしい姿を教員に見せてくれるようになったが、普段の授業に生徒たちは出席せず、テストを受けず、学校を浮遊していた。
そこで、浦商定時制の教職員集団は、①学校とは何か、②授業とは何か、③生徒につけさせたい力とは何か、といった根本的な議論を展開するようになり、研修会を開いていくようになった。「生徒を語る会」「拡大学年会議」「拡大生活指導部会」「拡大教員課程編成委員会」等、「教員の学びの場」を公的に開いていった(月2~4回)。
教育課程編成委員会は、「家庭での生徒たち」「教員から見た生徒の現実生活」「生徒と生徒の関係性」「生徒と学校」等のカテゴリーを分け、生徒の立体像に迫っていく。教育課程の到達したいことは「居場所」であった。目の前にいる生徒たちに、①場所を提供しよう、②学校を好きになってもらおう、③安心のできる場所にしていこう、といった議論を積み重ね、浦商定時制の学校像「心身が解放され心温かくなる場所」が合意された。浦商定時制がキーワードとなっていく。
第4節 生徒につけたい8つの力
浦商定時制は、ホームルーム運営や授業においても、「生徒の居場所」を基盤に据えた「教育実践」が求められるようになった。
その後、教育課程編成委員会は、各教科の「目的」を分析、統合させいく中で、「生徒につけさせたい『8つの力』として、①自分を表現する力、②他者認識と自己認識ができる力、③主権者として活動できる力、④労働をするための主体者像を確立できる力、⑤生活主体者としての力、⑥文化を享受できる力、⑦「世界」を読み取る力、⑧、真理を探究する力、を策定した。この力は「青年の未来像」を具現化しようとする力にほかならない。
たんなる情緒的な集まりから、行事を通して自治集団に、そして学習集団への転換と、「居場所づくり」から「学びの場所づくり」へと発展させていく道筋をつくっていった。こうした浦商定時制は教員みずから学習する場を組織することによって、①学校像、②生徒像、③教育内容、の共有をめざしていくことになった。
第5節 「居場所」から「自治活動」へ ~四者協議会発足~
2002年春、「もっと学校に意見が言いたい」という要求が生徒会執行部から出て、生徒と教職員で「学校」を語り合う「二者協議会」が立ち上がった。①お互いプライベートなことには言及しない、②基本的には生徒の要求を聞く場とする、といった約束事を決めることからはじまり、授業のこと、生活のこと等を話し合うことになった。当時、浦商定時制の「統廃合問題」で立ち上がった「卒業生の会」と、統廃合にどう関わったらよいのか苛立ちを見せていた保護者を呼び込み、2002年秋、「四者協議会」が発足された。
四者協議会の大きな目的は、「学校の未来をともに考えていく」ことである。活動内容は、「定時制統廃合問題」を中心に、「公開授業研究会」や「浦商定時制説明会」、「文化祭」に取り組む中で浦商定時制の教育内容を検証し、外部へ訴えていくことであった。2004年2月、「『学校』の未来形を探る」と題し、「浦商定時制シンポジウム」を開催し、生徒、卒業生、保護者等も加わり、100名を超える参加者で盛況だった。
浦商定時制四者協議会発足による教育活動の変化したところは、①これまでの浦商定時制の教育活動から見えてきた「もの」、そこからこれからの「学校」を外部へ提案したこと、②居心地の良い空間としての「居場所」(癒しの空間)から社会へ打って出るための拠点としての「居場所」へと、「居場所」の質を変容していったこと、の二つであった。これはまさに、浦商定時制の教育実践論的「切断」であるといってよい。
第6節 浦商定時制における教育実践の画期性
浦商定時制の教育実践を概観してきたが、その教育実践の画期性はどこにあるのだろうか。それを検証する中で、浦商定時制における教育実践が規制緩和や市場原理を導入した小手先の高校改革とは異なることを明らかにする。
まず、規則で生徒を縛らず、敷居の高い学校の職員室を生徒たちに開放することで、生徒たちに安心感を与えたことである。また、教員はみずからの権力性をズラし、生徒一人ひとりに目配せし、ゆったりとした雰囲気で家族のように振る舞う中で、既存の学校像を脱構築し、学校常識をズラし、「学校らしくない学校」を生徒たちに提示することを可能にした。経済効率優先の大規模校では不可能に近い学校のありようだ。
次に、浦商定時制の教員は自分のやっている教育活動を対象化し、論理化することを怠らず、教育実践に行き詰まると、様々な分野の本を読んで、自分の実践を立て直そうという姿勢があった。また、教職員のほとんどが民間教育研究団体(高校生活指導研究協議会、学校体育研究同志会、教育科学研究会、仮説実験授業、歴史教育者協議会等)に所属し、全国の研究会に自費で参加し、みずからの教育実践を相対化していた。こうした様々な教職員たちの問題意識が職場で自由に学校のこと、生徒のことについて語ることができる環境をつくりことができた。多様な生徒のリアルな現実に切り込むために教職員集団が職場の中で公的な学習会を組織し、共通認識をつくることができたのは、生徒の現実と学習する職場環境があったからにほかならない。生徒の指導上の問題を担任だけが背負い込むのではなく、職場内で共有するのである。こうした環境がつくれたからこそ、学校行事を通して、生徒にどのように成長してもらいたいのかという「指導上のねらい」をしっかりと持つこともできたのだろう。
三つは、教職員は、学校の中で生徒が主体的な主人公として生き、生徒たちの要求をくみ上げ、生徒たちが自分たちに関わる問題を民主的に議論できる場をつねに保障していた。学校の中で自分たちの「声」を聴いてもらえることは、自分自身を受け止めてもらえたという実感を持つことだ。それは同時に、他者に対する配慮にもつながることでもある。生徒の「居場所」を確保していくことは、教職員集団の責任だと自覚されていた。もちろん、生徒の「居場所」を確保するためには、生徒自身にとって「居場所」が何かがわからないと確保もできない。あてがいぶちの「居場所」ではなく、生徒が自分たちの「居場所」を奪還しなければならない。そのためには、教員と生徒の緊張関係がなければならない。教員から「学校文化」を押しつけることも多々あった。そうしたせめぎ合いの中で獲得されたのが、生徒たちの「居場所」であり、たんに生徒の「ニーズ」に合わせて、あてがいぶちの「居場所」を用意したわけではない。
四つは、ホームルーム活動や学校行事を通して、日常の活動では見ることのできない生徒たちの新しい力を引き出し、伸ばしそうとする教育思想があった。多くの場合、「体育祭や文化祭などの行事は、生徒が自主的に考えてやるものだ」と思っている。要するに、教員が指導すべきではない、と。「行事」を捉える浦商定時制の教員の認識はまったく異なっていた。実行委員会の運営方法、原案作成、レジュメの作り方、役割分担、討議・総括の仕方などを指導し、生徒たちが様々な壁に衝突する場面をつくっていた。生徒たちにとって厳しい経験だったが、しかし自分たちが決定したものを自分たちが執行し、総括していく道筋を教員が指導していくことで「引き出されていく力」がある。そうした共通認識が職場にあり、「生活指導」に力点を置いて教育実践をしていた。
五つは、たんに生徒の「居場所」が確保したことに甘んじず、生徒の実態を立体的に検証し、「学びの在り方」を追求し、生徒につけさせたい力を策定したことも画期的だ。上からの教育課程づくりではなく、「教育課程の自主編成づくり」をめざすことで、より責任ある学校づくりに着手できたといってもよいだろう。
六つは、浦商定時制統廃合問題を通して、生徒たちに「自分たちの学校の意義」を問い直させ、学校内の教育活動だけでなく、社会参加の教育活動へ転換させた。四者協議会を発足させることで、教員と生徒だけの教育活動から様々な価値観を持つ「他者」と関わる教育活動へ軸足を移し、学校教育の内容の問い直しが企てた。生徒の「居場所」を「居心地の良い空間」と「社会に打って出るための拠点としての居場所」の二重構造として捉え直し、生徒が大人として成長していく教育実践過程のパラダイム・チェンジを図ることになった。これは、新しい後期中等教育の在り方を示した実践といえるだろう。
七つは、公開授業研究会やシンポジウムを開いて外部からの評価・批判を正面から受け止めたり、これからの「学校像」を生徒・教員・卒業生・保護者・外部の人々と一緒になって語り合ったり、あるいは浦商定時制における教育実践の著作の刊行することで、「学校の未来形」を世に問うたこと、である。
以上、浦商定時制における教育実践の画期性を検証してきたが、今後の高校教育の将来像を描く意味で、きわめて重要な観点があると思う。学校常識をズラした学校からヒントを得て、学校システムから教育内容の充実とその実践過程を検証していくことも重要なのではないだろうか。
※以上の論稿は、私が15年前に書き残した文章を加筆・修正したものである。
参考文献
佐藤洋作「教育NPOによる若者たちの自立支援の試み」『高校生活指導』147号
佐藤一子「地域社会における子どもの居場所づくり」『岩波講座 現代の教育7』岩波書店
鈴木聡『世代サイクルと学校文化』日本エディタースクール出版社
諏訪哲二『学校がなぜ壊れたのか』ちくま新書
諏訪哲二『オレ様化する子どもたち』中公新書ラクレ
諏訪哲二『学校のモンスター』中公新書ラクレ
柄谷行人『探究Ⅰ』講談社
ウィトゲンシュタイン『ウィトゲンシュタイン全集8』ジュンク堂書店
東浩紀『動物化するポストモダン』講談社現代新書
東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』講談社現代新書
山田育男「それでもわたしが『班』にこだわる意味とは何か」『高校生活指導』146号
喜入克『叱れない教師、逃げる生徒』扶桑社
義家弘介『ヤンキー先生の教育改革』紀伊國屋書店
山田育男「学校アジール論序説」『高校生活指導』143号
山田育男「いかに学校アジールを獲得できるか」『高校生活指導』147号
浦和商業高校定時制四者協議会『学校がオレを変えた』ふきのとう書房
平野和広「浦商定時制の流儀 教育内容検討の闘い」『高校教育改革に挑む』ふきのとう書房
埼玉高生研『高校・生活指導の方法1』明治図書
埼玉高生研『高校・生活指導の方法2』明治図書
小玉重夫「規制緩和のパラドクス 権力の脱構築と政治的意味空間の創造」『高校生活指導』147号
杉田敦『権力』岩波書店
ミシェル・フーコー『監獄の誕生』講談社
諏訪哲二『イロニーとしての戦後教育』白順社
河上亮一『学校崩壊』草思社
中島浩籌『逃げ出した教師の学校論』労働経済社
芹沢俊介・藤井誠二・氏岡真弓・向井吉人『脱「学級崩壊」宣言』春秋社
L・べラック『山アラシのジレンマ』紀伊國屋書店