山田・佐藤往復書簡
その1(往信)
理事 佐藤 信行
お金の話『縁本位制通貨構想』
山田育男様
ご無沙汰してます。とうとう僕のお小遣いが減らされました。五個入り小粒あんぱんが四個になったり、冷凍シュウマイの大きさが小さくなったり寂しいですね。あんまり悲しいので僕のつぶやきを聞いてください。(上記の写真は、松本民藝館にて撮影)。
モノの値段が上がるとは、お金の価値が下がることを意味してます。1本100円の缶コーヒーが一万円で100本買えたのに、値段が10倍(1本1000円)になると一万円で10本しか買えません。これはモノの値段が10倍=お金の価値が1/10になる意味です。大好きな小粒あんぱんの数が減ったり、シュウマイの大きさが小さくなったのはお金の価値が下がったからです。
恐ろしいことに、銀行に預けてある僕らのお金も知らない間にどんどん価値が下がっています。例えば、グラスにカルピスと水と多めの氷を入れて冷蔵庫に入れておいたら、氷が全部溶けて超薄いカルピスになってしまったようなものです。これはグラスに注いだカルピスの原液が多くの氷で薄められてしまったからです。同じように銀行に預けてあるお金も氷が溶けて(お金を大量に刷って)薄められています。16年前のお金の価値と現在のお金の価値は全く違います。
16年前にリーマンショックが起きました。この時点で、世界の金融システムは破綻するはずでしたが大量のお金を刷って延命しました。それ以降の16年間お金を大量に刷り続けています。実は現在の金融システムは生命維持装置に繋がれたゾンビ状態です。そして、そろそろ生命維持装置での延命も限界に来ています。
生命維持装置が止まった時、銀行に預けてある僕らのお金は超薄いカルピスのように価値が毀損されていることがバレます。シンデレラの馬車が、12時の鐘とともにカボチャに戻るように・・・
この時、金融システムは破綻します。
金融システムの破綻以降、お金(通貨)の概念が変わります。僕は、希望を込めて祈ります・・近未来の金融システムの本質は【円パワーから縁パワーとなりますように】・・・
僕はそれを、人と人との繋がりを通貨の裏づけにする金融システム【縁本位制度】と呼びます。
2024/12/4(掲載日) 佐藤信行
山田・佐藤往復書簡
その2
理事長 山田 育男
『縁本位制通貨構想』
佐藤信行様
お手紙を拝読いたしました。お手紙をいただいてから、佐藤さんの提案する「人と人とのつながりを通貨の裏付けにする金融システム「縁本位制通貨構想」という造語がずっと気になっています。金本位制、通貨管理制度でもなく、「縁本位制度」という言葉は、少子高齢社会を生き抜くカギとなる重要な概念になるのではないかと直感的に思いました。(上記の写真は、もやい工藝にて撮影)。
過去に展開されてきた議論として「地域通貨」という概念がそれの代替案でしたが、「縁本位制度」というのは、貨幣という通貨にかわる何かさえも超えている提案です。この概念提示からどのような社会や経済が見えていくのか。きわめて刺激的な考え方として、私は受け取りました。少し道に逸れるかと思いますが、佐藤さんのご提案を私の関心事に牽き寄せて考えてみたいと思います。しばらくお付き合いください。
佐藤さんもお感じになっているかと思いますが、「貨幣」
私は、
このNAM運動は、途中で頓挫したものの、
ちなみに、経済学者の安冨歩の著書『経済学の船出』『貨幣の複雑性』の根幹には、その危うさを見抜いている気がしてなりません。佐藤さんの「縁本位制度」という造語は、過去のNAM運動などをさらに発展させることで、日本の、とりわけ、地域の新しい社会のあり方をめざす地域創生構想が可能となるのではないかと私は感じています。
ただし、「
山田・佐藤往復書簡
その3
理事 佐藤 信行
『縁本位制通貨構想』
山田育男様
お手紙ありがとうございます。同封された写真は信州旅行に行った時のものですね。懐かしく拝見しました。また、民藝巡りの旅行に行き酒を呑みましょう。(上記の写真は、松本民藝館にて撮影)
山田さんのご指摘はズバリ核心を突いてます。「貨幣」「通貨」の概念が大きく変わります。縁本位制の本質は山田さんが興した縁パワー10年の歩みそのものでしょう。縁パワーは社会実践しています。その中に『未来の形の雛型』があると確信します。縁パワー決起の草案・ポケットニュースレター・ホームページ・出逢い・別れ・地域の人々との交流・日々の生活・仏教・民俗学・民藝・公助・共助・自助・・・
近未来の「貨幣」「通貨」のあり方に、社会問題の処方箋(縁パワーの社会実践)を据えることで、危機に直面している地球の悪いスパイラルを善いスパイラルに逆回転させる秘術が縁パワーです。
僕なりに、「貨幣」「通貨」について簡単に整理してみたいと思います。「貨幣」「通貨」には『モノの裏付けの有るお金』と『モノの裏付けの無いお金』があります。古来、お金にはモノの裏付けがありました。金を裏付けにしたシステムが金本位制で、金が通貨価値を担保した『モノの裏付けの有るお金』です。しかし通貨発行量が金保有量に縛られるため、総通貨発行量に限界があり経済成長の足枷となりました。そこで、通貨を金から切り離した『モノの裏付けの無いお金』信用創造の仕組みを取り入れたのです。1971年に米ドルを金から切り離し、且つ世界中の石油の取引に米ドルを用いるルール、米ドル石油本位制(ペトロダラー)=米ドル基軸通貨体制を敷きました。
現在、私たちが使っているお金は、日本なら日本銀行(中央銀行)が発行しているお金、米国ならFRB連邦準備制度理事会(中央銀行)が発行しているお金です。これらは信用創造という仕組みの『モノの裏付けの無いお金』です。信用創造は中央銀行が借金からお金を生む魔法のシステムです。政府が国債を発行して、中央銀行が引き受けて通貨を発行します。紙幣は債権者の中央銀行が印刷する借金の証文書です。現在、世界中に大量に発行された借金の証文書が溢れかえり、通貨の価値を毀損させています。
この【借金がお金を生むシステム】は国債利息分を上乗せして中央銀行へ返済するため、右肩上がりの経済成長が大原則なので経済成長できない現在は【機能不全のシステム】となっています。
山田さんが仰るとおり、先人たちの語る「貨幣」「通貨」は危ういものであることが実証されました。私には、宮崎駿氏の作品『千と千尋の神隠し』に出てくる妖怪『カオナシ』が巨大化して制御不能となり、周囲を破壊尽くす姿と「通貨」と「資本」が増殖する姿が全く同じに見えます・・・
縁本位制度論を思考する過程で、社会診断と処方箋が得られますよう共闘しましょう。
2024/12/6 佐藤信行
山田・佐藤往復書簡
その3の追伸
理事 佐藤 信行
『縁本位制通貨構想』
山田育男様
追伸 :
信用創造【借金からお金を生むシステム】は【機能不全のシステム】となっています。中央銀行が国債を引き受けて通貨を大量発行する、金融システムの生命維持装置は限界に来ています。生命維持装置が止まった時、「貨幣」「通貨」の概念が変わります。
通貨の役割は『尺度』『交換』『資産保全』ですが、新しい通貨は『資産保全』が無くなると考えます。究極的に目指す理想形は『通貨が不要になる社会』とするならば、通貨の役割は尺度と交換のツールであり、そもそも通貨に資産保全の機能があることが諸悪の根元です。通貨の資産機能を蓄財することで格差が広がります。そして犯罪を誘発します。ましてや利子がつくのは自然や宇宙の原理に反しています。あらゆるモノは消滅するのが自然や宇宙の原理です。自然や宇宙の原理に背くものは存在が許されないのです。
近未来は直近です。新しい通貨『縁本位制』が近未来の処方箋です。これは法定通貨とは別の地域通貨のようなものになるかもしれません。人と人との繋がりが通貨の裏付けとなります。縁本位制が社会問題の処方箋となると考えています。この研究テーマを山田さんと一緒に取り組めたら幸いです。山田さんは社会実践しているオピニオンリーダーです。
安冨先生の三冊の著作をリクエストされたのは羨ましいです。さすが山田さん行動が素早いですね。
今後とも、よろしくお願いいたします。
佐藤信行
山田・佐藤往復書簡
その4
理事長 山田 育男
『縁本位制通貨構想』
佐藤信行様
お手紙をありがとうございます。
拝読致しました。
佐藤さんは以下のように書かれました。
「貨幣の役割は『尺度』『交換』『資産保全』ですが、新しい貨幣は『資産保全』が無くなります。究極的に目指す理想形は『貨幣が不要になる社会』とするならば、貨幣の役割は尺度と交換のツールであり、そもそも貨幣に資産保全の機能があることが諸悪の根元です。貨幣の資産機能を蓄財することで格差が広がります。そして犯罪を誘発します。ましてや利子がつくのは自然や宇宙の原理に反しています。あらゆるモノは消滅するのが自然や宇宙の原理です。自然や宇宙の原理に背くものは存在が許されないのです。」
※上記の写真は、山梨県立美術館にて撮影。
私は、以上について、すべて賛同いたします。
佐藤さんご指摘の中に、「資産保全」が消滅すると書かれています。そうすると、貨幣の役割として「尺度」「交換」が残ります。この2点はきわめて重要なキーワードとなりますね。縁本位制における「尺度」とは何のものさしとなるのか。また、「交換」とは何との交換なのか。熟考に値します。
また、仮に「資産保全」が消滅しなかった場合、この「資産保全」は何も貨幣でなくてもよいのではないでしょうか。つまり、「縁」=「地域ネットワーク」というものを地域で構築した場合、その「縁」=「地域ネットワーク」は「地域の資産価値」にならないでしょうか。地域で構築された「人と人とのネットワーク」こそ、自治体の「資産価値」として評価されれば、都市と地方の「優劣」はなくなります。むしろ、人口の多い都市であればあるほど、ネットワークの構築は複雑になりますから、人口の少ない自治体のほうがネットワークはつくりやすく、その質も逆に高くなる可能性があると思います。
国は「縁」という尺度で各自治体を評価し、交付金を分配する仕組みができた場合は、人口が多ければ多いほど交付金は少なくなるはずで、そうなれば東京の一極集中はむしろ足枷となりえます。
「縁」の価値が高いと認定されれば、人口の流失は起こり、都市の集中化は減少し、生活の質を求めて、人々は「定住化」よりも「遊動化」していきます。
以上は、あくまでも私の妄想です。
佐藤さんの問題提起からさらに深めていきたいと思います。
2024.12.6 山田育男
山田・佐藤往復書簡
その5
理事 佐藤 信行
『縁本位制通貨構想』
山田育男様
お手紙ありがとうございます。今年も秋が短く、街を往く人々の装
※上記の写真は、縁パワーでカラオケ大会をした時に撮影。
新しい貨幣の概念は社会問題の処方箋です。これこそが本来の貨幣のあり方です。
社会問題の処方箋をポストモダンに模索しても見当たりません。そ
近未来に現行金融システムが変わる時、そのきっかけは地震や大恐
『人と人とのネットワーク』にこそ価値があり、縁が尺度となる。真に『縁本位』ですね。縁とは、山田さんの仰るように、貨幣を超えた概念です。縁は近代を超克するかもしれません。この半世紀、
『縁』は、私たちが見失った何かを取り戻す、最後の切り札と成り
2024/12/7 佐藤信行
※上記の達磨の写真は、瑞穂町郷土資料館・けやき館にて撮影。
山田・佐藤往復書簡
その6
理事長 山田 育男
『縁本位制通貨構想』
佐藤信行様
お手紙ありがとうございます。佐藤さん流のイマジネーションで「縁」というキー概念を考えられていて、とても興味深く拝読いたしました。
佐藤さんは、わが国の半世紀、経済成長が飛躍的に発展した反面、社会的な課題が次々と顕れたとわが国の現状を憂いでいます。私も同感です。私たちが直面する現実は、「光」と「闇」の両側面が顕わになっただけでなく、取り返しのつかないところへ一歩足を踏み入れてしまったのではないかという恐ろしささえ私は感じています。
しかし、佐藤さんは、そうした社会的な問題を突破する手がかりとして、「縁」という考え方は、私たちが見失ったものを取り戻すカギだとも書かれています。
「私たちは近代からの贈り物と引き換えに『お陰様』や『惻隠の情』のような大切な何かを見失ったようです。
※上記の写真は、松本民藝館にて撮影。
『縁』は、私たちが見失った何かを取り戻す、最後の切り札と成り得ましょう。」
今回の手紙は、佐藤さんが強調してやまない「縁」という概念について、私なりの考え方を提示したいと思っています。
しかし、その前に、少し横に逸れますが、「縁」を考えるうえで、佐藤さんと出会ったきっかけを振り返る必要があります。
佐藤さんとの出会いは、2015年の春でした。しかし、その出会いは直接的なものではありませんでした。佐藤さんのパートナーの方がある喫茶店を経営されている方とあるお話をする約束があり、佐藤さんがそこへ同行されていました。喫茶店の経営者は、私が生活困窮者支援をするうえで大変お世話になった大先輩であったことから、その喫茶店で話し合いに同席をさせていただきました。私はその席で佐藤信行さんとはじめて出会ったのです。
その喫茶店にたまたま寺山修司演劇のチラシがあり、佐藤さんがそのチラシに興味を示されました。
ちなみに、私は、15歳の頃、父親の本棚にある寺山修司の『書を捨てよ街へ出よう』という本をたまたまつまみ、その本の装丁に衝撃を受けたことがきっかけで寺山修司に興味を持ちました。はじめは寺山修司よりも、『書を捨てよ街へ出よう』の装丁にかかわった横尾忠則のイラストに衝撃を受けて本を読みはじめたのですが、寺山修司の文章を読み進んでいくうちに、横尾忠則の衝撃のことを忘れてしまい、寺山の「コトバ」に魅了され、それ以来、寺山修司のファンになります。寺山演劇はリアルタイムで観ていないのですが、寺山演劇の戯曲集や演劇論は私の人生を変えてしまうくらいの破壊力があり、寺山修司は、現在も私に多くの影響を与えています。
寺山修司の大ファンであった私からすれば、私の目の前に寺山修司をご存知の方がいることが何よりうれしく、胸を躍らせる瞬間でした。また、佐藤さんが10代の頃に演劇をされていたことなども、佐藤さんと私の距離を近づけたと思います。喫茶店の経営者の話し合いが終わって、近くのバ~ミヤンでの飲み会では、30年以上も会っていなかった「親友」と再会したかのように、お互いの人生を語り合って、その日の宴が終わりました。
2015年6月29日、私は、「特定非営利活動法人縁パワー」という団体を立ち上げ(法人の創立総会)、佐藤さんは会員、数年後には理事になってくださいました。運営上や、利用者さんのことで、その都度、アドバイスをいただきました。心より感謝申し上げます。
あれから10年が経過しましたね。信じられないくらい、短く感じた10年でした。
さて、私が佐藤さんとの出会いについて長々と書かせていただいたのは、何も佐藤さんとの「思い出」に浸りたいということではありません。佐藤さんとの「出会い」の在り方について考えてみたかったからなのです。つまり、佐藤さんとの「縁」についてです。
佐藤さんと私の出会いは「たまたま」づくしです。すべてが偶然の重なり合いによって産まれた「出会い」といってもよいでしょう。
佐藤さんのパートナー―は、縁パワーの副理事長と知り合いの関係でしたが、私はまったく面識がありませんでした。一方、喫茶店の経営者と佐藤さんは面識がありませんでした。また、佐藤さんは認知症高齢者のグループホームの支援をされていた方ではありましたが、ホームレス状態にある生活困窮者への支援をされてきたわけではありませんでした。したがって、佐藤さんと私が「出会う」接点はほとんどなかったといってもよいと思います。さらにいえば、佐藤さんと私が出会った日、喫茶店に寺山修司のチラシがなかったならば、ここまで接近してお話をすることがあったかどうかもわかりません。あくまで、その喫茶店に「たまたま」寺山修司のチラシがあったにすぎないのです。もし寺山修司のチラシがなかったら、10年間のお付き合いもなかったにちがいありません。佐藤さんと私の関係は、したがって、不思議な「縁」なのです。
ところで、「縁」というコトバは、よく「ご縁がある」などといった時に使われていますが、本来は、仏教の「縁起」に由来しています。宗教学者の阿満利麿は『行動する仏教』の中で、次のように書いています。
「仏教では、釈尊の『悟り』は『縁起』だと教えている。『縁起』とは、(略)もとは『因縁生起』のことで、物事の成立、あり方を説明する。直接的な原因(「因」)と間接的な原因(「縁」)とが組み合わって一つの結果が生まれ、それがまたつぎの原因となってゆくという複雑にして膨大な『因・縁・果』の網が『縁起』なのだ。」
また、阿満利麿は「人間の暮らしは、巨大な「因縁果」の絡み合いの中で営まれて」おり、その絡み合いの中に「この私があります」(『歎異抄にであう』)とも言っています。つまり、「私」という存在でさえ、あらゆるものの「関係性」の中にあるのであって、単独で、固有な存在があるのではないのだ、と。あえていえば、「私」とは「関係性」のことをいうのではないかと思うのです。
余談になりますが、カール・マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』の中で、「歴史は自分自身でつくる。だが、思うようにではない」と書いています。これはマルクスの人間観を示す重要なコトバではありますが、仏教的な「縁起」として考えた場合、また別の見え方が生まれてくるかもしれませんね。
続く
※上記の写真は、瑞穂町郷土資料館にて撮影。
山田・佐藤往復書簡
その7
理事 佐藤 信行
『縁本位制通貨構想』
山田育男様
お手紙ありがとうございます。今日は、母の面会に行ってきました。帰りの列車の中で、母の言葉を思い出しながら、駅の売店で買ったブランデー入りのチョコレートをツマミに、水割りウイスキー9%缶を呑んだらいつもより酔いがまわりました~
※上記の写真は、お祝いパーティーの撮影。
「・・一人で大きくなったなんて思っちゃいけないよ。今のあんたの暮らしがあるのも、先生やお友だちのお陰だよ。いろんな人との出会いや別れのご縁に、今のあんたがあるんだよ・・・」
現行金融システムの米ドル基軸通貨体制が終わると、新しい金融システムが始まります。それは『埋蔵資源担保 金銀+α
本位中央銀行デジタル通貨』であると推測します。信用創造の米ドル基軸通貨体制の問題点は、通貨の裏付けを不要とするため無尽蔵に発行できてしまうことです。なので、裏付けを必要とする通貨にすれば良いからです。しかし、経済活動に充分な量の通貨を発行するには金や銀の総保有量が少ないため、国の埋蔵資源が担保するルールとします。これは資源を有する国が優位となるルールです。金銀の埋蔵資源を有しない国が不利となるので『+α』に、他の希少資源や国のGDPを充てます。各国の中央銀行が、複数の有形無形な価値(バスケット)を裏付けとして、国の総発行量の上限を定めたデジタル通貨を発行する金融システムです。日本国は金保有量(900t程?)も埋蔵資源も少ないので、不利になってしまいます。だから『国のGDP』も裏付けの一つに認定する働きかけが必要です。
そして武蔵村山学派は『縁の概念』を通貨の裏付けにする地域通貨を模索します。縁本位制通貨構想は、山田さんが論じている『円環的構造の相互補完的な互酬交換体系』の理論的支柱に縁の概念を据えてこそ実現可能性があります。
現行金融システムの既得権者は、システムの変更を受け入れないでしょう。
しかし、受け入れざるを得ない天災事変をきっかけに変更はドラスティックに行われると推測します。その時、社会インフラが停止したり、物流が止まったり若干の混乱が予測されます。食料やエネルギーが入手できなくなる可能性があります。地域において公助が期待できない場合、自助・共助が試されます。半径1.5kmの安全保障が必須となり『縁環的構造の相互補完的な、財やサービスの互酬交換体系』が必要とされることでしょう。ニーズが顕在化し、顕在化したニーズは常態化して、以降地域のニュー・ノーマルとなることを私は疑いません。
2024/12/13 佐藤信行
山田・佐藤往復書簡
その8
理事長 山田 育男
『縁本位制通貨構想』
佐藤信行様
お手紙ありがとうございます。前回の私の手紙では、「縁本位制通貨構想」の理論的な側面を整理する前に、佐藤さんとの「縁」について振り返ってみました。手紙の最後には、マルクスの「歴史は自分自身でつくる。だが、思うようにではない」というコトバを援用し、マルクスの人間観が仏教的な「縁起」の考え方に近似していることにふれました。
人は自我があるため、何事も思い通りにできるという勘違いをします。自分に対する過信があります。しかし、人間は不完全な存在です。世の中には、自分ではどうすることもできないことがあるのだということを受け入れた瞬間に、人は、他者とともにあることにも気がついていきます。人は一人では生きていけません。生きていくためには、なんらかのかたちで人とつながり合うしかないのです。そうしたことを理解するうえで、「縁」という概念は、きわめて重要なコトバなのではないでしょうか。「縁」とは自分を振り返る鏡、言い換えれば、「縁」とは自分を映し出す鏡なのかもしれません。
しかし、「縁」=「人とのつながり」は、人を縛ります。人を窮屈にします。そもそも「縁」には相矛盾した意味合いを含みもっています。そうした両義性は、ややもすれば、私たちがこれから展開していこうと思っている「縁本位制通貨構想」の足枷になることも事実です。したがって、「縁」における相矛盾した要素を解消していくものは何かを考える必要性があります。
その点について豊かな示唆を与えてくれるが、経済学者の安冨歩の名著である『経済学の船出』です。この著書は、「縁本位制通貨構想」を描いていくための理論的支柱になっていくため、時間をかけて論じていきたいと思います。
ちなみに、安冨歩は、博覧強記、博学才頴であるため、これから紹介する『経済学の船出』を容易に読解することは困難です。一つの考え方を論じる流れの中で、経済学ばかりか、哲学、歴史学、経営学、文化人類学、複雑系科学、社会科学、などの領域を横断しながら論を展開しているため、不勉強な私には到底すべてを理解することはできませんし、様々な考え方を紹介することも困難です。あくまで、『経済学の船出』の中の「無縁と貨幣」の関係性を論じている部分だけをフォーカスし、「縁」概念の矛盾を乗り越え、「縁本位制通貨構想」の地平を開いていきたいと思っています。
ただし、「無縁と貨幣」の関係性について論じるには、もう一つ別の手続きが必要になってきます。それは、安冨歩が論を展開するために参照した歴史学者の網野善彦の著書『無縁・公界・楽』の「無縁」の原理を説明しなければならないでしょう。迂回をお許しください。
続く
2024.12.16 山田育男
山田・佐藤往復書簡
その9
理事 佐藤 信行
『縁本位制通貨構想』
山田育男様
お手紙ありがとうございます。今日、ニュースを眺めていたら面白いことに気づきました。日本銀行の建物って、上空から見ると円の文字の形をしているんですね。
近未来の金融システムの本質は『円パワー』から『縁パワー』・・・とか、『壱万円』は『壱万縁』に・・・とか、『えん、えん、えん』と言葉遊びや駄洒落感覚で語ってきましたが、『円』と『縁』が同じ音『えん』であるのは偶然ではないかもしれません。
円は、日本国法定通貨の通貨単位です。旧字体で『圓』です。議事院上局会議にて大隈重信が「親指と人差し指の先で丸をつくると三歳の児童でもそれが貨幣を意味していることがわかる」と発言されたので通貨単位『円』は円形の新貨幣の形状に由来しているとの俗説があります。確かに円は、貨幣(コイン)の形状に由来しています。財布や袋に入れて携帯する金属貨幣なら、その形状は薄く円形が好ましいからです。
円は丸い形状を意味し、丸い形状はサークルやリングを意味し、サークルやリングは関係を意味し、関係は縁を意味します。円は、その形状においても、その意味においても丸や関係と云う概念を共有しています。『えん』と云う音が、丸や関係を表し『職場の人間関係が丸くおさまる』と表現するように、円と縁は『丸や関係』の概念を共有しています。日本語の言葉は言霊が宿り、その発音に言葉の意味を顕在化するパワーがあります。
明治政府が経世済民のツールとなるべく祈念して、新貨幣の通貨単位に『丸や関係』の概念を孕む『円』を採用したのは、新国家建設に、僕らが掲げている縁本位制通貨構想と同じような企図があったのかもしれません。しかし、経世済民のツールは150年の歳月を経て形骸化して、貨幣は欲望むき出しの金融資本主義の走狗となり、富の格差を産み、その本質的役割から逸脱しています。再び縁の概念を貨幣と結びつけることが、円のリハビリテーション(名誉復活)となり、経世済民のツールとなると考えます。
しかし、縁(関係)の概念を貨幣と結びつけるとは、具体的に何を成すのでしょうか?縁は関係を意味しますが、一方で貨幣は物々交換の際に発生する人と人との関係の煩わしさを回避できる機能を有します。関係を強化する縁と、関係を回避できる貨幣。この逆ベクトルにある二者を如何に結びつけるのか?この解を導きだすことが構想の鍵ですね。
2024/12/17 佐藤信行
山田・佐藤往復書簡
その9の追伸
理事 佐藤 信行
『縁本位制通貨構想』
山田育男様
寒くなりましたね。公園の銀杏もハラハラと落葉しています。昨夜
マックス・ウェーバーは『近代とは、社会の合理化過程である』と
社会の合理化過程で、村人は村から都市へ流出し、共同体を維持するための様々な機能(面倒な労役)から解放されていきました。
山田さんが喝破されるように、人を共同体の機能から解放し、共同体を弱体化させたツールが貨幣ですね。貨幣は社会の合理化過程で共同体の機能を解消するツールでもあり、
現在、社会的課題の元凶の一つが『関係の希薄化』にあることを、
・・テレビドラマの嫁が語るには、自分が住んだこともない村の法
2024/12/18 佐藤信行
山田・佐藤往復書簡
その10
理事長 山田 育男
『縁本位制通貨構想』
佐藤信行様
法人の運営する障害者グループホームが軌道に乗りはじまりかけてきた時、佐藤さんと一緒に「民藝の旅」を計画していたことがありましたね。その最初の旅は、長野県松本市にある「松本民藝館」や「ちきりや民藝店」などへ行きました。あの旅は本当に楽しかったですね。夜の宴ではお互いの人生観などを語り合ったりして、充実した時間を過ごせたことを記憶しています。「また、『民藝の旅2』を企画しましょう」と別れ際に話したものの、お互いの仕事が忙しくなってきたこともあって、中断したままになっています。機会があればまた行きましょうね。
民藝の旅は宿泊がありますので難しいものの、民藝店へ行って好みの器などを買いに行くことは今でもかろうじてできています。最近はあまり行くことがなくなってしまった「もやい工藝」という民藝店があります。創業者の久野恵一さんという人が全国の窯元などの作り手たちとかかわったり、プロデュースしたり、時には作り手を叱咤激励したりしながら、作り手とともに手仕事品をつくり上げた歴史があることから(作り手と久野さんとの関係性が大変よくわかる書籍として、久野恵一著『日本の手仕事をつなぐ旅』全四巻があります。私は全四巻を読ませていただきましたが、良質な手仕事品の作り方や、民藝の美しさをどうとらえていくのかを学ぶ著作として、久野さんはとてもすばらしい仕事を遺されたと思っています。
とりわけ、私は、編組品の美しさのとらえ方を学ばせてもらいました)、とても良質の手仕事品が店内に広がっており、それらを見るだけで興奮してしまうくらい、欲しいものがたくさん並んでいます。コロナ以降は外出することが制限されてしまったために通販で購入しています。義理の母に外村ひろさんのノッティングをクリスマスにプレゼントしたくてもやい工藝に連絡をすると、急なお願いであったにもかかわらず、快く応じてくださったこともありました。久野恵一さんはすでに亡くなられていますが、久野さんのご家族が「久野魂」を受け継いており、関東では随一の民藝店ではないかと私は思っています。民藝は、作り手だけでなく、配り手(つなぎ手)がきわめて重要な役割を果たしています。私が民藝にのめり込んでいったきっかけは、ねじめ民藝店の店主(ねじめ正一さんの奥様)のやさしく接してくださった接客がなければ、ここまで民藝に入れ込むことはなかったと思います。つまり、配り手(つなぎ手)が使い手の私に民藝の良さをいざなったのです。
ところで、もやい工藝は神奈川県鎌倉市にあります。私は、もやい工藝へ行って器などを購入した後、いつも必ず立ち寄る場所があります。それは東慶寺です。東慶寺には、私の尊敬する哲学者の西田幾多郎や、禅を世界に普及した鈴木大拙のお墓があります。そのお墓に手を合わせることが目的で東慶寺に立ち寄るのですが、もう一つ、私が東慶寺に立ち寄る理由は、東慶寺が女性の駈け込み寺としての役割を果たしてきたお寺だからです。
江戸時代、女性には離婚権がありませんでした。夫に非があったとしても、三行半の離縁状を書き、妻を離縁するのは夫でした。つまり、夫は自由に妻を離婚しえたのです。とても不条理ですね。ただし、妻が離婚する手段がまったくなかったわけではありません。歴史学者の網野善彦は次のように言っています。
「とはいえ、妻の側に離婚のための手段が全くなかったわけではない。夫が妻の衣類などを妻の同意を得ずに質入れした場合とか、妻が親元に帰ったのを、夫がそのまま三、四年放置しておいた場合などには、妻の離婚の意志が認められた。
しかし、妻が積極的に離婚の決意に貫くための最も有効な手段は、(略)縁切寺への駈込であった。」(『無縁・公界・楽』)
網野善彦の名著『無縁・公界・楽』には、「追いすがる男の手を逃れて、満徳寺の門内に草履を投げ入れた女の姿」の絵の写真が載っていますが、「門内に草履でも櫛でも、身につけたものを投げ入れたとたん、追手はその女性に手をかけることもできなくなる寺法に支えられていた」(同上)と言います。江戸時代、縁切寺への駈け込みは、東慶寺と満徳寺だったことは広く知られています。つまり、興味深いのは、江戸時代、夫の従属下におかれていた妻の「自由」を保証していた縁切寺が東慶寺と満徳寺だったことです。
ちなみに、私が縁切寺の駈け込みであった東慶寺に関心を寄せた理由には、私が今まで取り組んできた事柄とも関係しています。それは、私が生活困窮者支援をしてきた際、DV被害や性暴力被害に遭われた女性の方と出会う機会があったからです。現在では、配偶者からの暴力や家庭環境の破綻、生活の困窮など様々な事情によって、日常生活や社会生活を営むうえで困難な問題を抱えている女性は、女性相談支援センターを経由して、女性自立支援施設(旧婦人保護施設等)に入所することになっていますが、江戸時代にはそのような制度があったわけではありませんので、東慶寺や満徳寺がそのような機能を果たしていたのではないかと思います。
※松本民藝館の石仏。
ここで重要なことは、東慶寺や満徳寺という縁切寺が「夫の従属下におかれていた妻の『自由』を保証していた」ということ、つまり、縁切寺は「アジール」(避難場所)になっているということなのです。もちろん、網野善彦の言うように、「この『自由』は、一面ではきわめてきびしい規律によってしばられていた」ことも事実だし、駈け入った女性たちの間にも階層というものがあったといわれています。決して単純に「平等」な場所ではなかったですが、「きわめて専制的な幕藩権力のちからをもってしても、いかんともなし難い底深い慣習に支えられていた場」(同上)であったことにはちがいないと思います。
※松本民藝館の石仏。
「(中略)そこに、きわめて限定された意味にせよ『自由』と、権力や武力によるのではない『保護』とが存在したことは否定し難いといわなくてはならない。」(同上)
ところで、網野善彦は著書の中で、「縁切寺」における「自由」や「アジール」について論じていますが、著書の冒頭で、「エンガチョ」「スイライカンジョー」という子どもの遊びについてふれており、私はここに、「無縁」の原理の可能性を解くカギがあるのではないかと思っています。
少し手紙が長くなりましたので、次回は、子ども遊びから看取する「無縁」の原理を整理したいと思います。
続く
2024/12/21 山田育男
※上記の写真は、小鹿田の窯元に祀られていた石仏。