連載小説第1回 筒抜け
山田 育男
ある朝、僕は不可解な夢から目を覚ますと、けたたましく響きわたるドアのノックの音に気が付いた。僕は先刻までの夢のせいで吐き気をもよおすほどの不快感に苛まれていたので、矢継ぎ早に叩かれるノックの音が二日酔いの後の頭痛のように僕の頭にがんがん響きわたった。
「郵便でございます、このドアを開けていただけますか?」
郵便配達人の声がドアの向こう側から聞こえてきたけれど、僕は気だるさを抑えきれず、ベッドから身体を起そうとはしなかった。
「すみません、郵便ポストにそのまま投函してもらえますか?」
僕は聞こえるか聞こえないかの声で郵便配達人にそう伝えた。
「それはできないお願いでございます。わたくしがHさんに郵便物を渡すことができなければ、わたくしはこのままずっと、このドアの前で立ち続け、Hさんがドアを開けてくださることを待つしかないのです」
郵便配達人は奇妙なことを言いはじめたので僕はますます不快感に苛まれたけれど、重い腰を上げてドアの近くまで歩み寄り、ドアのノブに手を伸ばした。しかし、僕の手は凍りついたようにぴたりと止まった。僕は開けることを拒んだのだ。もう誰とも会いたくない、金輪際、人と接触するなんてごめんだ、わずらわしい、人なんか信用できるものか、と感じていたからだ。
「わたくしはそんな疑わしい者ではございません」と郵便配達人は言った。「ただHさんのためにお届けものをしに来ただけです。それが済めばすぐに帰ります」
僕は部屋のドアを開けたら最後、何かに巻き込まれるかもしれないと直感的に思ったので、「大きな郵便物でしたら、ドアの前に置いてもらうだけで結構です。だからもう帰ってください」とぶっきらぼうに応えた。
「そういうわけには参りません。それではわたくしの役目が果たせないのです。わたくしは郵便配達人でございます。依頼人が託した願いをしっかりと受取人に届けることがわたくしの仕事でございます」と郵便配達人は応えた後、「Hさんを巻き込むなんて、そんな大層なことを考えておりませんよ」と少し含み笑いを浮かべながらそう付け加えた。
「必ず郵便物を受け取ってもらわなければならないなんてあまり聞いたことがありません」
「郵便書留でございます」
「郵便物と引き換えに僕のサインがほしいということですか?」
「さようでございます」
「それではドアの下に少し隙間がありますので、その隙間から控えの用紙を差し込んでもらえますか?」
「どうしても開けていただけないのですか?」
「あなたにはまったく関係のないことだが、今僕は誰にも会いたくない心境なんだ。はっきり言って迷惑なんだよ。今こうしてあなたと話していること自体が」僕は唾をペッと吐くように言った。
「誠に申し訳ございません。そうであれば、Hさんが会いたい心境になるまで、わたくしはこのドアの前で待つことに致します」
こいつはおかしなことを言う奴だ。何やら僕を罠にかけようってこんたんだな。もう騙されないぞ。どいつもこいつも人をバカにしやがって!
「罠にかけるなんてとんでもございません」と郵便配達人は言った。「わたくしは何も致しません。何かが起こるとすれば、郵便物がHさんに関係を持つのです。郵便物がHさんに物を申すということなのです」
「郵便物が? 物を申すだって?」
「さようでございます。郵便物は呼び掛けです。呼び掛けられた何ものかにHさん、あなたは黙っていられないでしょうね」
「呼び掛けられた何ものかを無視することだって応答の仕方でしょう?」
「たしかにそう言えますね」と郵便配達人は言った。「しかし、無視することも一種の振る舞いです。それだけで呼び掛けられた何ものかにかかわっているわけです。それからは逃れなれない」
「いったいあなたは何が言いたいんだ?」
「わたくしは物を申しません。Hさんのためだけに、郵便物を届ける郵便配達人でございます。それが済むまで決してここから離れるわけにはいきません。だからここを開けていただけませんか?」
この部屋のドアを開ければ僕の心は覗かれ、土足で僕の内面を踏みつけにされてしまうのだ。そんなこと今の僕には耐え難い。心を許すわけにはいかないぞ。僕の部屋のドアは僕の内部の壁だ。この壁が壊されてしまったら僕の心は丸見えだ。もう誰も僕の世界には入れないのだ。ここには僕しかいないのだ。
「アイツの心も丸見えです。あなたはアイツのすぐ傍にいますから、あなたの壁はアイツの壁でもあるわけです。あなたを貫通することはアイツを貫通するのです。いや、アイツを姦通することなのではないですか?」
アイツの心? アイツの壁? 僕の壁がアイツの壁? アイツを姦通すること? アイツとは誰だ? ますます訳がわからなくなってきたぞ。
僕はアイツではない。僕は僕だ。誰も僕の世界に侵入できるはずがない。
僕は気分を害した。ドアの前に崩れるように座り込み、気分が悪くなった原因が先刻の不可解な夢のせいなのか、それとも郵便配達人の奇妙な問答のせいなのか僕は考えた。いやいや、そもそも、昨日起きた悪夢のような出来事が原因なのではないかと僕は考えはじめたのだ。(続く)
※小説『筒抜け』は、2010年11月29日に脱稿したものです(当初の題名は『世界の果てまで連れてって』でした。同時に書いていた『無関係』『筒抜け』という2つの短編小説を組み合わせて長編小説としてまとめました)。小説の出来栄えはともかく、脱稿してから16年が経過しましたが、あらためて読み返すと、当時の私の心象を表現した「地下問答」のような文章です。リーマンショック後の世界をどう生きぬくかを私なりに模索していたのかもしれません。ご興味のある方はお付き合いください。
連載小説第2回 筒抜け
山田 育男
昨日の昼、僕は○○郵便局の局長代理に呼ばれ、解雇処分を言い渡された。正社員として採用された僕が何の理由もなく解雇できるはずはないにもかかわらず、局長代理から一方的に言い渡されたのだ。僕は解雇処分を受けるような悪いことをした覚えはまったくなかった。だから僕は局長室に入るいなや局長代理に立腹した。
「なぜ僕が辞めなければいけないのですか? 僕にはさっぱりわかりません。いいですか、局長代理、正社員を解雇するには正当な理由がなければなりません。僕はここに入社以来、遅刻や無断欠勤、お客様とのトラブルだって起こしたことがございません。そんな僕を解雇処分するなんてありえない話じゃないですか」
僕は局長室の来客用ソファーに深々と座っている局長代理に語気を強めて反論した。
「理由はわかりませんが」と局長代理は言った。「まあ、とにかく、きみはもう職場に来なくてもよい、と局長ははっきりと言っています。わたくしはそのことをきみに伝えるだけです。本日、局長は不在です。局長に代ってきみに伝えているだけなんですよ。それがわたしの役目なんですね」
局長代理は薄笑いを浮かべてそう言った。その後、掛けている眼鏡のレンズを丁寧に拭きはじめ、さらにこう付け加えた。
「きみはここに入社したこと自体、疑わしいではないですか?」
「疑わしい?」と僕は言った。「疑わしいとはどういうことですか?」
「きみはこの会社に入社したという事実すらないんですよ」と局長代理は冷淡に応えた。
「何を言っているんですか? 今までずっと僕はこの○○郵便局で働いていたじゃないですか? 局長代理だって、毎日僕が郵便配達人として、一軒一軒、きっちりと郵便物を届けている姿を見ていましたよね?」
「それは何を見れば確認できますか?」と局長代理は言った。
「確認って?」僕はびっくりした。
「だからきみがここで働いていたという証拠ですよ」
「何が言いたいのか、僕にはさっぱりわかりません」
「雇用契約書を取り交わしましたか?」
「僕が、ですか?」
「きみ以外に誰がいるというのですか?」
「取り交わしているはずです」
「きみと取り交わした雇用契約書が見当たらないんですよ。コピーは保管していますか?」
「コピーをしていただいた記憶はございません」
「そんなはずがないでしょう? それがなければ、きみが○○郵便局で働いているという事実を証明できるわけがない」
「おっしゃっていることがさっぱりわかりません。雇用契約書のコピーを僕に渡すのはそちら側の義務です。義務を怠ったのは、そちら側ではないですか?」
「いや、義務と言ってもですね、きみとは雇用契約を結んでいないんですよ。それでは百歩譲って、雇用契約書以外できみが○○郵便局で働いていたという証明は出せますか?」
「タイムカード、そう、タイムカードがあるはずです。僕は出勤したらすぐにタイムカードを押します。それが僕の証明です」
「身分証明書をお持ちですか?」
「いったい何のために必要なんですか?」
「○○郵便局にきみの名前のタイムカードが存在するのかを確認するためですよ」
僕は財布の中に入れてある住基カードを局長代理に渡した。
「H・・・、Hさんね、そんな名前の従業員は存在しませんね」局長代理は住基カードを確認し、○○郵便局に勤務する従業員の書類と照らし合わせながら言った。
「そんなはずはない!」
「大きな声を出すのは、やめなさい!」と局長代理は言った。「ここは局長室です。神聖なる局長室であります」
「し、失礼しました」
「局長代理であるわたしでさえ、普段はこの部屋に入ることができません。今日は局長に代ってきみにお伝えする任務があって、わたしは今この局長室にいます。それ以外はこの部屋に立ち入ることさえ許されていません。その局長室できみはなんて声を出すのですか。無礼極まりない」
「しかしですね、局長代理」
「しかしもカカシもありません」
「では、局長代理」
「なんだね」
「この部屋ではない場所でお話がしたいです。これは僕の問題です。局長であろうがなんだろうが、僕はこの問題を譲るわけにはいきません。黙りません」僕は引かなかった。
「きみは何か勘違いをしているようですね」
「勘違い?」
「そうです」
「どういうことですか?」
「きみの解雇処分問題はきみの問題かもしれない。しかし、きみの処分をどうするかの権限は、局長にあります。その権限なしにわたしもきみに話すことさえできないのです」と局長代理は言った。「これは○○郵便局長がきみに下した命令です。それは局長室でお伝えする責務があります。その責務をわたしは局長から与えられて、今きみとお話をしているのですよ。ですから、別の部屋でのお話はできません。したがって、きみの要望にはお応えできかねます」
「わかりました。そうであればここでお話を致します。僕の解雇処分の件ですが・・・」
「Hさん、と言いましたね」と局長代理は言った。
「はい」と僕は言った。
「きみは何か勘違いしています。さきほどからきみは解雇処分と言っていますが、厳密に言えば、きみは解雇処分ではありません」
「解雇処分ではない?」と僕は言った。「では、会社を退職させられるわけではないのですか?」
「いや、退職させられるも何もきみはここに入社していないのです」と局長代理は言った。「入社していないきみが解雇処分を受けるわけがない。入社すらしていないのですから。むしろ、従業員でないきみが○○郵便局にいること自体がすでにおかしい。いいですか、きみは○○郵便局に不法侵入しているのですよ。きみは不法侵入罪で今わたしとお話をしているにすぎない」
「不法侵入罪?」と僕は言った。「そんなバカなこと言っちゃいけない。いくら局長代理でも許しませんよ」
「だからさっきから言っていますように、不法侵入罪ではない証拠を出していただきたいのです」と局長代理は語気を強めて言い返した。
「証拠? 証拠は僕だ、僕の存在がその証拠ではないですか?」
「そのきみが疑わしい、きみという存在が証拠にならないから、こうしてお話をしているのではないですか?」
「僕という存在以外に確実な証拠はないはずです。僕が僕でないならば、今ここにいる僕はいったい誰なのでしょうか?」
「きみの存在証明を知りたいのではない」と局長代理は言った。「きみが○○郵便局で働いていたという証明だ。それはまだ明らかになっていないではないか」
「僕がここで正社員として働かなければ、今こうして局長代理の前でお話をしていることがナンセンスです。これがすべてではないですか?」
「しかしね、きみ、ある従業員になりかわってきみがここにいるという疑いは残りますよ」
「それではこう致しましょう。僕自体が存在の証拠でないとすれば、僕が○○郵便局で一緒に働いてきた同僚が僕の証拠になりませんか? 僕の証明は僕と一緒に働いてきた人が誰なのかによってさらに明確になるはずです。スズキさんをここに呼んでいただけますか?」
「スズキ? はて? 誰でしょう? ○○郵便局にはスズキという名字を持つ従業員が六名もいます。下の名前は何て言いますか?」
「下の名前? いや、存じ上げません」
「知らない? それではきみの言い分はのめませんぞ」
「フルネームを覚えているほどのお付き合いはしておりませんので・・・」と僕は困った表情を浮かべて言った。
「それではここに六名のスズキを呼んでくることになります。それは厄介ですね」と局長代理は言った。「今この時間にスズキ6名が現場から離れてこちらに来るということになれば、営業に差しさわりが生じます。配達しているわけですから、その仕事を中断することになります。そうすると、本日の郵便物が届けられない事態になり、なによりお客様の不利益になりますぞ。わたしたちは顧客第一主義をモットーで営業しています。従業員であるなら、きみ、そんなことご存じでしょう。ご存じでなければ、きみがここの従業員であることは証明できないはず。いや、ご存じでありながら、それでもわたしに要求してくるのであれば、きみは営業妨害をしていることになりますね。不法侵入罪も含め、きみを警察に通報することだって辞さない覚悟ですよ。それでよろしいですかな?」と局長代理は僕を脅しにかけてきた。
「たしかに○○郵便局は顧客第一主義であることは僕も存じています。しかし、今僕に浮上している問題は労働者の権利を侵害しているばかりか、僕のアイデンティティを認めない、そうした問題にかかわっているわけですよ。場合によっては○○郵便局が僕の問題で国から行政指導を受け、営業停止すらなる事態です」僕も負けてはいなかった。
「営業停止? 物騒なことを言いますね、きみは。不法侵入罪・営業妨害に対して、きみは営業停止で対抗するということですか?」と局長代理は言った。
「いや、それが目的ではありません」と僕は言った。「僕がここで働いているという存在証明をまず明らかにしたいだけです。そうだ、アルバイトのYさんをここへ呼んでいただけませんか? Yさんは入社以来、僕が業務上の指導にあたっていましたから。局長代理、ぜひよろしくお願い致します」
「Y? そんな従業員いたかな? まあ、アルバイトで働いている人はいっぱいいるから、すべての従業員をわたしが承知しているわけではありませんからね。仕方ありません。それでは今連絡を取ってみます、お待ちを」
局長代理は面倒臭そうな表情でソファーから立ち上がり、「局長、ちょっと電話をお借り致します」と局長不在の局長椅子に向かって呟いた後、局長室の机の上にある受話器を取った。「ああ、係長、わたしだ、局長代理だ、そこにYくんとやらはいるかね? アルバイトをしているらしいんだよ、そのYくんとやらは、うん、困ったことになってね、まあ詳しい話は後にして・・・、そうか、いるんだね、そのアルバイトのYくんとやらを局長室に呼んでくれたまえ、ああ、今すぐにだ、よろしく頼むよ」と局長代理は乱暴に受話器を下ろした。
ややあって、局長室のドアをノックする音がした。
「局長代理、Yくんを連れて参りました」係長らしき声がドアの向こう側から聞こえた。
「入りたまえ」と局長代理は言った。
「失礼致します」係長はYを促して、「きみも入りたまえ」と言った。
「はい、失礼致します」Yが局長室に入ってきた。
僕は係長とYを確認すると、「お疲れ様です、わざわざすみません」と会釈をした。係長はチラッと僕を一瞥したのみで、挨拶を交わさなかった。Yは僕を見るや、ニコッとした笑みを浮かべ、お辞儀をした。僕は助かったと思った。
局長代理は来客用ソファーに座るよう係長に促した。「失礼致します」と係長は遠慮がちに腰をかけた。Yはソファーの横で緊張した面持ちで直立しているままだ。局長代理は、何をやっているのだ、早く座りたまえ、とでも言うような表情をYに向けるけれど、Yに促さず、係長に首で「座れ」と指示を出した。
「Yくん、きみも早く座りたまえ」
Yは係長からの指示ではじめて直立不動の身体を動かし、ソファーに着席をした。
「で、係長、ここにいるHさんという方を知っているかね?」と局長代理。
「存じ上げません。業者の方ですか?」と係長。
何を言っているんだこいつは、いつも同じ部署で働いていたじゃないか。
「どうやら○○郵便局に勤務しているらしいんだ」と局長代理。
「いや、わたしは今日はじめてお会いしました方です」と係長。
僕はあまりの怒りに顔を紅潮させ、係長を睨みつけた。
「そうなんだよ、困ったことに本人はどうしても○○郵便局に働いているってきかないもんだからね」と局長代理。
「それは困りましたね」と係長。
困ったのは僕の方なんだ。
「そうなんだ、困っているんだ、彼がここで働いている証明をYくんに聞いてもらえないかってね、そう言うんだ」
「Yくんに聞くも何もわたしは彼を存じ上げません。わたしは現場監督です。現場監督のわたしがそういうんですから、確かです」
「きみの話はいいんだよ。Yくんに訊ねているんだ」と局長代理は言った。
「はい、失礼致しました」と係長は言った。
「で、Yくん、きみはここにいる方をご存じかな?」
局長代理は身を乗り出してYに訊ねたけれど、Yは無表情で黙ったまま、凍りついたように何の反応もしない。ゴホン、と局長代理は咳払いをし、もう一度、「Yくん、きみはここにいる方をご存じかな?」と訊ねた。
Yは先刻と同様、だんまりを繰り返すので、「係長、わたしの質問をYくんに伝えてもらえないか?」と局長代理は係長に言った。
「はい、かしこまりました。Yくん、きみはここにいる方をご存じかな?」と係長。
先刻まで凍りついて身体を動かすことさえしなかったYはスイッチが入ったかのように、「はい、存じ上げております」と無機質に応えた。
やったぞ、これで僕を証明できる。ありがとう、Yくん。
「知っているかね」と訝しげに係長はYを見つめ、「局長代理、Yくんは知っている、と言っています」
「なるほど・・・、どこで彼を見かけたのかね?」と局長代理。
だが、先刻と同様に、Yはだんまりを繰り返す。どうやら、Yくんは係長の言葉しか耳に入らないようだった。
「係長、どこで彼を見かけたのかな、とYくんに伝えてもらえるかな?」と局長代理は言った。
「はい、かしこまりました。Yくん、きみはどこであの男を見かけたのかね?」と係長は言った。
「どこで彼を見かけたのかね、だ」と局長代理は言った。
「失礼致しました。どこで彼を見かけたのかね?」と係長は言い直した。
「はい、Hさんとは幼馴染でありまして、先輩と後輩の関係でございます。見かけるも何も、Hさんとはずっとお付き合いをさせていただいております」Yは係長から質問されるとスイッチが入った機械のように棒読みで応えた。
「幼馴染? ほう、幼馴染ね」と局長代理は言った。
「幼馴染? ほう、幼馴染ね」と係長は言った。
「それは伝えなくてよろしい」と局長代理は言った。
「失礼致しました」と係長は言った。
「ところで、Yくん、確認するが、彼は幼馴染であると同時に同僚の関係であるということでいいのかな?」と局長代理は言った。
「ところで、Yくん、確認するが、彼は幼馴染であると同時に同僚の関係であるということでいいかな?」と係長は言った。
「いちいち同じことを言う必要があるんですか?」と僕は言った。
「それは必要なんです!」係長は僕に憤慨した。「Yくんに局長代理の言葉をお伝えするのはわたしの役目です。局長代理の指示を受けて、わたしがYくんに指示を出します。局長代理から直接Yくんに言葉をお伝えすることはできないシステムになっていますから」係長は真剣なまなざしで応えた。
「それって面倒臭くないですか?」と僕は言った。
「面倒臭いだとか面倒臭くないだとかが問題なのではありません。会社とはそういうものです」と係長は言った。
「それを理解していないところをみると、きみはここで働いたことがないということだよ」と局長代理は言った。
「そんなことはございません。○○郵便局で働いていたんです。そのことはたしかな事実です」と僕は言った。
「それは後にわかる。さて、もう一度繰り返すが、Yくん、彼とは幼馴染であると同時に同僚でもあるわけだよね?」
と局長代理は言った。
「もう一度繰り返すが、Yくん、彼とは幼馴染であると同時に同僚でもあるわけですよね」と係長は言った。
「いえ、違います」とYは言った。
Y、何を言っているんだ!
「違う?」と局長代理は言った。
「違う?」と係長は言った。
「何が違うというのかね?」と局長代理は言った。
「何が違うというのかね?」と係長は言った。
「同僚ではありません」とYは言った。
同僚ではないはずないだろ!
「同僚ではない」と局長代理は言った。
「同僚ではない」と係長は言った。
「同僚ではないとすると、彼は○○郵便局で働いていないというわけか?」と局長代理は言った。
「同僚ではないとすると、彼は○○郵便局で働いていないというわけか?」と係長は言った。
「その通りでございます。あくまでもHさんはわたしの幼馴染。それ以上でも以下でもありません」とYは言った。
「ほう、そういうことなんだな」と局長代理は勝ち誇った表情で笑みを浮かべた。
「ほう、そういうことなんだな」と係長は勝ち誇った表情で笑みを浮かべた。
「それは伝えなくてもよろしい。今のはわたしの独り言だ」と局長代理。
「それは伝えなくてもよろしい。今のはわたしの独り言だ」と係長。
「もうよい!」と局長代理し係長に叱責した。
「もうよい!」と係長はYに叱責した。
「失礼致しました」とYは深々と謝罪した。
「Yくんが謝る必要はない。係長、わたしが直接Yくんに話をするから少し黙っていてもらえないか?」と局長代理。
「失礼致しました」と係長。
Yは局長代理の質問に無表情。局長代理は係長とヒソヒソ話をはじめた。
「ああ、そうですか、承知致しました。Yくん、これからは局長代理みずから指示を出しますので、局長代理の質問に答えなさい。これはわたしの命令です」と係長は言った。
「かしこまりました」とYは言った。
「それでは、Yくん、彼とは同僚ではないんだね?」
「さようでございます」とYは言った。
「そんなはずはないだろう、Y、きみとはずっと仕事のパートナーだったじゃないか」と僕は言った。
「パートナー? たしかに幼馴染だすから私生活ではそうでしょうが、Hさんは同僚ではございません」とYは無表情に応えた。
「あのね、きみに○○郵便局を紹介したのはこの僕なんだぞ。僕が上司に口を利いてやってようやく働くようになったんじゃないか、失業者だったお前が」僕はYの裏切り行為に我慢がならなかった。
「記憶にございません。わたくしはわたくしの力で○○郵便局に採用されました。決してHさんの力ではございません」
「ふざけたこと言っているんじゃない!」と僕はYを怒鳴りつけた。
「まあ、Hさん、Yくんもああ言ってんだ。これがすべてだ、この事実を受け止めてもらえないかね?」と局長代理。
「だから何の事実ですか?」と僕は言った。
「きみが○○郵便局で働いていないという事実を受け止めてもらいないかということだよ」と局長代理は言った。
「受け止めることなんかできますか?」と僕は言った。「わたしは正社員として○○郵便局で働いています。勤務状況はいたって良好です。だからわたしは○○郵便局の従業員です!」
「きみはさっきからそれ以上のことを何も言っていない。きみの疑いはまったく晴れていないんだ。もう出てってくれ、直ちにここから出てってくれたまえ!」と局長代理は机を強く叩いて言った。
係長は猫の首をつかえるように僕の襟をつかまえて局長室から強引に追い出したのだった。(続く)
連載小説第3回 筒抜け
山田 育男
「そんなことがあったのですか?」と郵便配達人は気遣うように僕にやさしく囁いた。「結局、○○郵便局をクビになったのですか?」
「それすらもわからない。入社したことすらなっていないというわけですから」と僕は言った。
「それは困りましたね。気の毒です。気の毒でなりません」郵便配達人は僕に同情したような声で囁いた。
「こんな理不尽極まりないことははじめてです。人なんか信用できるものか!」
「そうでしょうね。何しろ幼馴染のYさんまでHさんが従業員であることをご存じないんですからね」
僕はなによりもそのことが気になっていた。幼馴染のYはとても良い後輩で、嘘なんかつける後輩ではなかったからだ。とりわけ、僕には決して嘘なんかついたことがない。僕とYの関係は確固とした先輩と後輩の関係だ。あんな口を叩く後輩ではない。ずっとそう思ってきた。いったい何が起こっているのだろうか、と僕はさっぱり理解することができなかったのだ。
「嘘をつけない後輩だとしますと、確固とした縦割りの関係があるということですか?」
「そういうことです。もちろん、だからと言って、抑圧する関係でもありませんがね」
「なるほどね」
「ところで、きみは○○郵便局の郵便配達人ですよね?」と僕は言った。
「はい、そうでございます」と郵便配達人は応えた。
「きみの声、まったく聞き覚えがない気がするんだけれど」
「ええ、今日が初出勤ですから」
「初出勤?」
「はい」
「いつ採用されたの?」
「はい、昨日の夕方でございます」
「昨日の夕方?」
「さようでございます」
僕は昨日理不尽な振る舞いを受けた後に郵便配達人が採用されたことに気が付いた。すると、この郵便配達人は僕の後釜か、と僕は思った。
「そういうことになるかもしれませんね。そうだとすれば、整理解雇でもないかもしれません。整理解雇であれば従業員を雇う体力すらないはずですからね。わたくしを採用したということは、従業員を雇う体力があるっていうことですよ」と郵便配達人は言った。
「そういうことです。しかし・・・」と僕は言った。
「しかし、なんですか?」と郵便配達人は言った。
「僕はそんなことを問題にしているんじゃない」
「と言いますと?」
「僕の存在が証明できないということに苛立っているわけだよ」
「存在証明ですか?」
「雇用契約書だとかタイムカードだとか、そんな紙切れが僕の存在を証明するものじゃない。しかも、今までずっと働いてきた同僚、後輩までが僕の存在を証明できないんだ。そんなはずはないでしょう?」
「しかし、局長代理はHさんの存在証明が知りたかったわけでもないでしょう? 現に後輩のYさんはHさんが幼馴染であることは認めていたではないですか?」
「それはそうかもしれない」と僕は言った。
「あくまでもYさんは局長代理と係長、係長とYさんの関係で話された事柄です。Hさんに対する裏切り行為でも何でもない。すべては力関係です」と郵便配達人は言った。「だから局長代理はHさんの存在は認めているわけですよ。存在を否定しているわけではないのでは?」
「しかし、そうは言っても、この僕が○○郵便局で働いていたわけでしょ? ではいったい僕はどこで働いていたっていうんだい?」と僕は言った。
「それを証明していただきたかったわけです。それを証明するために、雇用契約書が必要だったということなのではないでしょうか?」
「○○郵便局はその雇用契約を交わさなかった事実を忘れているんだよ。雇用契約を交わさないということは、とどのつまり、僕の存在を証明するものがないということです。それがない状況で僕は○○郵便局に働かされていたということなのです」と僕は言った。
「存在しているのに存在していないわけですね」と郵便配達人は言った。
「そういうことなんだ。すごく気持ちが悪い」
「なるほどね」と郵便配達人は言った。「そうだとしますと、どこかに帰属していることがHさんの存在証明というわけですか?」
「どこにも帰属していない人間なんていないでしょう? きみだって○○郵便局に帰属していることできみの存在が保たれているわけだから」と僕は言った。
「たしかにそうですね」と郵便配達人は言った。「わたくしは郵便配達人です。わたくしが郵便配達人であるということは○○郵便局の従業員であることによって、はじめてHさんに郵便物を送り届けられるわけですから。郵便物を差出人から預かってしまった以上、わたくしはHさんにこの郵便物を届けなければなりません。そのためだけにわたくしが存在していると言ってもいいでしょう。だから、わたくしはHさんがこの郵便物を受け取っていただけるまで、このドアの前で待ち続けるしかいないのです。だから、Hさん、いい加減、この郵便物を受け取っていただけないでしょうか? お願いし・・・」
郵便配達人がドアの前で僕に懇願しているまさにその瞬間、とつぜん、僕の携帯電話のベルが鳴った。マナーモードに切り替えていなかったために、けたたましく鳴り響くベルの音が郵便配達人の声をかき消した。僕は郵便配達人とのやりとりを一時中断し、携帯電話の着信履歴を確認した。非通知だった。相手のわからぬ電話なんか取りたくない、迷惑だ、と思った僕は電話のベルを無視した。しかし、いっこうにベルの音が鳴りやまない。「うるせえなあ」と感じた僕はすぐさま電話を切った。「本当に迷惑だよな」と僕は唾をペッと吐くように呟き、マナーモードに切り替えた。(続く)
連載小説第4回 筒抜け
山田 育男
数秒後、また僕の携帯電話が鳴ったけれど、今度は非通知ではなかった。とはいえ、アドレス帳に登録していない電話番号だった。僕は見知らぬ相手からの電話は一切取らない主義だったので、そのままにしておいた。間もなく留守電のメッセージが入った。僕はすぐに留守電のメッセージを聴いた。なにやらドスの効いた声で僕を威嚇しているようだった。しかし、ドスを効かせて怒鳴りつけている声であったために、留守電の録音の声が割れていて、メッセージ内容が判然としなかった。ただ、「アパートの件」と「家賃」という単語だけははっきりと聴き取れた。僕は今日から働くことができなくなったとはいえ、今まで家賃を滞納したことがなかったので、家賃の何の件なのだろうか、と気になって仕方がなかった。僕が住むアパートのやさしい大家さんにしては語気が荒かったことも気になった。いったい何が起きたのだろうか? そこで、僕は折り返しの電話を入れてみた。
「もしもし、さきほどお電話いただいたHという者ですが、いつもお世話になります。ちょっと留守電の声が割れてしまっていて、メッセージ内容全体を把握することができなかったんですけれど、『アパートの件』と『家賃』という単語だけははっきりと聞こえたんですね。家賃の何の件でのお電話でしょうか?」と僕は言った。
「ああ、Hさん? おれは大家から依頼を受けた鮫島という者だ」
「大家さんではないのですね」と僕は言った。
「大家から依頼を受けた鮫島って言ってるじゃないか!」
「た、大変申し訳ございません。・・・そ、それで、さ、鮫島さん、どのようなご用件でしょうか?」鮫島の威嚇に僕はおそるおそる訊ねた。「ちなみに、僕は今まで一度も家賃を滞納したことがないんですけれど・・・」
「家賃の件じゃないんだよ、Hさん、急な話で申し訳ないんだけど、あんたが住んでいるアパートの『立ち退き』の件なんだ」
「立ち退き?」と僕は驚いた。
「そうなんだ、そちらのアパートの老朽化に伴って建て替えをしなければならなくなったんだよ、だから、至急引っ越しをしてもらいたいということなんだ」
「そ、そんなこと、な、何も聞いていません、今まで」僕は動揺した。
「あんたが聞いているか聞いていないかはどうだっていいんだよ。こっちはあんたがこのアパートを出ていってもらうために雇われているんだ。それを遂行することがおれの仕事だ。だからよろしく頼むよ」
「頼むって言われてもですね・・・。いつまで、ですか?」と僕は言った。
「一週間ってとこかな?」と鮫島は言った。
「一週間? そんなの無理です!」と僕は思わず大声を出して驚いた。
「無理? 無理でもしてもらわないと困るんだよ。アパートの建て替え自体、二日後に工事がはじまっちまうわけだからさ、まあそうなると、明日には誰も入居していない状況になってないと困んだよ」と鮫島は言った。
「無理でもしてもらわないと困る、と言われてもそれは無理です。そちらが困るのもわかりますけれど、住んでいる僕が困ってしまいます」
「権利の主張ばかりするのはやめろ!」と鮫島は僕を怒鳴りつけた。「今のわけぇ奴は事あるごとに権利だってうるさくて仕方がねえ。市民も成熟してしまうとあぶねぇ世の中になっちまうな」
「権利ばかりを主張しているのではありません。考えてみてください。すぐにアパートを出ろと言われても、新しい物件を探すにしても時間が掛かりますし、引っ越しのための初期費用だってすぐに工面できません」
「働いていないあんたには絶対絶命だな」と鮫島は僕が退職を迫られていたことを知っていた。「おれはあんたのことを何だって知っているんだ」
さきほどの郵便配達人にしろ、鮫島にしろ、僕の解雇問題の情報が筒抜けだ、いったいどこから僕の個人情報が漏洩しているんだ、と僕は思った。しかし、僕はその不思議さに驚いている暇はなかった。
「働いていなんじゃない、一方的に解雇させられたんですよ」
「あんたが解雇させられたかどうかはおれの問題じゃない。そんなことどうでもいい」と鮫島は凄んだ。「働いていないというのは事実だ。働いていない人間がアパートの家賃を払えるわけがねえよな。その時点で出てってもらわないと困るじゃないか。働かないんだったら、生活保護でもなんでも受けて払ってもらわねぇと困るんだよ。そんな奴にアパートの居住権も糞もねえんだよ。」
「居住する権利はまだ失われていないと思います。まだ滞納したわけではありませんし、借地借家法では入居者の居住権を保障していまして、家賃を一~二ヶ月滞納したというだけで入居者を退去させることは法的に不可能です。だから、僕が働いていないからといって、すぐに退去通告もできません。それに、今回は『立ち退き』の問題です。『立ち退き』の場合は契約更新期間満了の一年前から六ヶ月までの間に入居者に通知しなければならないと思います」と僕は鮫島にきっぱり言い放った。
「そんなことどうでもいいんだ、バカ野郎! おれは大家から依頼を受けて早急にアパートから立ち退いてもらうよう指示をだされたんだ、おれは法律で動いているんじゃねえ、大家の指示で動いているんだ」と鮫島は恫喝まがいの言い様で僕に迫った。
「鮫島さんは法律で動いていないかもしれませんけれど、ここは法治国家ですよ。大家さんだって法律に従わなければなりませんよ。そうなれば、鮫島さん、あなただって法律に従わなければなりません。すべて法律に則ってわたしたちの生活があり、僕たちの生活も守られています」と僕は緊張しながらも鮫島に言い返した。
「屁理屈を叩くな!」
「屁理屈ではありません」
「あんたがそう言うんだったらこちらにも覚悟があるぞ。すぐにでも建て替えを着工するよう業者に要請したっていいんだぜ」と鮫島は恫喝してきた。
「このアパートは僕だけの住まいではありません。いろんな人たちが住んでいます。僕の件で建て替えを早められたらそれこそ住民に迷惑になります。やめてください」
「だったら、どうすんだよ!」
「どうするって?」
「応じるのか? 応じないのか? はっきりしてもらおうじゃねぇか、ええ?」と鮫島は言った。
「応じられません」と僕はきっぱりと応えた。
「じゃ、覚悟を決めときな」鮫島はそう言うと、一方的に電話を切った。
とんでもないことがこれから起こるぞ、と僕は動揺した。
「とんでもないことがこれから起こりそうですね」と郵便配達人は僕に同情する言葉を投げかけた。
さきほどの鮫島の勢いであれば、明日中にでもアパートへ押しかけ、バブル期の総会屋のように立ち退きを迫ってくるに違いない。法律を破るなんて朝飯前だ。僕と同様、アパートの住民を恫喝し、ぐうのねでも出ないやり口で居住者を一掃すること請け合いだ。一方的に職場から追い出された挙句、さらに一方的にアパートの立ち退きを迫られ、僕はいったい何処に行けばいいのだろうか、と僕はなんだか訳がわからない気持ちになった。
しかし、アパートの老朽化といっても住むにはまったく問題ない。アパートの老朽化は一見正当な事由と思われがちだけれど、倒壊の危険があるという切迫感はない。したがって、鮫島、いや、大家さんからの立ち退き要求は拒否できるはずだ、と僕は思った。大家さんとの性格の不一致があったわけでもない。いやいやあったところで立ち退きは契約以前でないとできないだろう。だからこのまま住み続けることはできるのだ。立ち退き交渉において書面での契約を交わしたことも一度もなかった。民法上の口頭でも契約は有効であるけれど、書面で交わさないうちは合意した証拠がない。すぐにでも立ち退き料を請求し、合意できないなら立ち退きできないと告げなければならない。僕はそう思った。
「そうであれば内容証明郵便で通知した方がよいかもしれませんね」郵便配達人は僕の内面に割り込んできた。
「内容証明郵便?」と僕は言った。
「証拠能力的に内容証明郵便の方が間違いなく勝てると思います」と郵便配達人は言った。「ただ慌てないでください。慌てて要求すると、逆に撤回できなくなりますから、ご注意ください」
「しかし、僕は立ち退き料を要求したいのではないのだ」と僕は言った。
僕はあくまでも立ち退きそのものに合点がいかないのだ。住まいを失うことは僕の居所を失うことだ。何処にもいない存在として生きなければならないのだ。何処にも働かず、何処にも住んでいない、そんな生きるありようを一方的に強いられるなんてまっぴらご免だ、と僕は思ったのだ。
住まいは僕そのものだ、故郷だ。何処かに帰る場所がない喪失感を抱えながら生きていく自分ってなんだろうか。人は故郷を明け渡してまで生きていくことができるだろうか。これはたんに立ち退きだけの問題だろうか。そうではないだろう。僕の在り処が問われているのだ。むろん人は何処かにいつかアパートを転居することだってあるだろう。定着した住まいだけが人の在り処を決定するとは言えまい。だとすれば、何だ? そう、在り処を守るのだ。在り処を守ることなしに僕の存在は耐えられない。僕はそう感じていた。(続く)
連載小説第5回 筒抜け
山田 育男
「立ち退きそのものを拒否したいということですか? それは自分の在り処を守るために抵抗するということですか?」郵便配達人は言った。「誰だって留まる場所を必要としています。それを奪われることは自分を奪われることでもあります。そう言いたいのですね?」
「移動は自分の意志だ。自由なんだ。自由意思とは、誰かから一方的に強いられることではないんだ!」と僕はだんだんと腹が立ってきて、ドアの向こう側にいる郵便配達人に力強く叫んだ。「だから僕は守るのだ。鮫島から何を言われようが、何をされようが、僕はここから離れない」
「そうは言っても力づくだけで自分の在り処は守れません。守るためにはいくつかの方法があります。方法を選択することも確かな意志です」と郵便配達人は言った。「その選択を誤れば、自分の在り処すら守れないこともあるのです。守るための一つの方法として内容証明郵便がございます。内容証明郵便で立ち退き料を請求し、こちらが提示する立ち退き料に合意できなければ立ち退きをしなければいいのです」
「しかし、合意できる満足な立ち退き料を提示された場合はどうする?」と僕は言った。
「合意しなければよいのです」と郵便配達人は言った。「合意しない戦術で、まずは引き延ばしていく方法を考えるのです。そうすれば、その間、別の戦術を一緒に考えましょう」
「そんなにうまくいくんだろうか?」と僕は言った。
「わたしは郵便配達人でございます」と郵便配達人は言った。「Hさんから受け取った内容証明郵便を持って、大家さんの家へ行きます。そして、大家からHさん宛の返事を受け取ってまいります。わたくしはその橋渡しをする役目です」
「なぜそこまで?」と僕は言った。「きみとは今日はじめて会ったばかりだ。なぜそこまで親切にしてくれるのかわからない。きみが業務上で届けにきた郵便物でさえも僕は受け取ろうとしていないじゃないか。きみにとっては目の上のたん瘤なんだよ、僕は」
「いや、一方的なのはわたくしです。人とお会いしたくない心境なのに、Hさんが郵便物を受け取るまでここに居座ろうとしている厄介者です」と郵便配達人は言った。「Hさんのお気持ちをないがしろにしているのはわたくしなんですよ。だからHさんの頑ななお気持ちを和らげていく必要があると思うのです」
「僕と関わればきみに多大な悪影響を及ぼす可能性がある。せっかく○○郵便局に就職したわけだ。それにきみは僕と入れ替わった存在だ。なおさら変な目で見られてしまう」と僕は言った。
「信頼関係が大切なんです。とりわけ、Hさんのように理不尽な状況が何度も何度も起こっていれば、人間不信になるのは当たり前ですよ。社会が信じられないっていうことは、社会の中の大人を信じられないっていうことだと思っています。だからこそ、その信頼はわたくしからつくらなければいけないのだと感じています」と郵便配達人は言った。そして、郵便配達人は少し間をおいて、「わたくしはHさんに郵便物をお届けに参りました。受け取っていただくために努力は惜しみません。わたくしにやらせてください」と言った。
「そう言ってくれると嬉しい」と僕は言った。「それでは、立ち退き料請求の書類を作成しますので、しばらくドアの前でお待ちいただけますか?」
「お待ち申し上げています」と郵便配達人は言った。「わたくしはHさんのためだけにここにいます」
僕は部屋のパソコンを立ち上げ、インターネットで立ち退き料請求の書き方を調べた。すぐに書類を書き上げ、今まで開けることを拒んでいたドアをはじめて開けて、僕は郵便配達人の存在を確認した。
「これでよろしく頼みます」と僕は言った。
「喜んで」と郵便配達人はニコッとした笑みを浮かべた。「ちなみに、ここにある郵便物はいかがなさいますか? もしわたくしを信用していただけないとすれば、受け取らなくても構いませんよ。わたくしは快く受け取っていただくまで待ちたいと考えています」
僕は郵便配達人に書類を渡した後、ニコッと笑みを浮かべ、郵便配達人が差し出した一通の手紙を受け取った。
「きみはここまで僕に歩み寄ってくださいました。受け取るのは当然です。しかし・・・」と僕は言った。「まだこの手紙の封は開けないでおきます。この手紙の封を開ける気持ちにまだなれないから」
「承知致しました」と郵便配達人は言った。「そうですね、一つひとつ問題を解決してからですね。わたくしはHさんがいずれその手紙をお読みいただけることをお待ち申し上げています」
郵便配達人はそう言うと、僕から渡された書類を業務用のカバンに仕舞った。僕は郵便配達人が立ち去る姿をじっと見つめた。僕は郵便配達人の姿が見えなくなったことを確認すると、部屋のドアを閉めた。
僕は郵便配達人から受け取った一通の手紙を部屋のテーブルに置き、ベッドに自分の身体を放り投げた。不条理な出来事が矢継ぎ早に起こり、肉体的にも精神的にもヘトヘトだった。本来、郵便配達人から受け取った手紙の差出人が誰からなのかを確認するところではあるけれど、そんなことはどうでもよかった。僕が郵便物を受け取ったのは差出人からの内容を知りたいということではなく、親切に対応してくれた郵便配達人の誠意からだった。それ以上でも以下でもなかった。だから、まったくといっていいほど、僕は郵便物を気に掛けず、ヘトヘトになった身体を静めるために、一休みした。僕はベッドに横たわり、部屋の天井を見つめ、昨日から自分に起こった出来事をぼんやりと振り返っていた。
すると、僕の右頬にポタリと水滴が落ちてきた。雨漏りにしては様子がおかしい。外は晴天だ。雨一つ降っていない。上の階の部屋の下水道かなんかが故障でもしているのだろうか。早いところ大家さんに連絡をして確かめてもらわないといけない。そう思ったまさにその瞬間、水滴が落ちてきた天井近くの内壁がめくれ上がり、剥がれそうになっている。ずっと何も手を加えなければ徐々に壁が剥がれる勢いだ。僕は接着剤の効き具合が悪くなったのだと感じ、アロンアルファーを抽斗から取り、捲れ上がって剥がれてしまいそうな内壁の修理に取り掛かかった。そうしているうちに、反対側の内壁が同じように捲れ上がって剥がれそうになってくる。今までそんなことなかったのでおかしいとは思いながらも、考えてみれば、このアパートは築三〇年の建物だ。僕が入居してから一度だって修理したことなんかない。建物自体、ガタがきているのかもしれない。僕は近いうちに大家さんに立ち退きの件も含め、相談をする良い機会できたと思った。しかし、それをいいことに、立ち退きが加速することだってあるのではないか。だとすれば、内壁の件は大家さんに内緒にしたほうがよいのではないか、と僕は考えた。ほらみたことか、と大家さんだけでなく、あの鮫島がアパートに乗り込んでくるに違いない。それでは鮫島の思う壺だ。それだけは避けなければならない。僕はそう思った。だから僕は剥がれそうな内壁すべてに必死になって接着剤を塗りつけた。(続く)
連載小説第6回 筒抜け
山田 育男
内壁までに翻弄される始末だ。
しかし、たかが内壁、されど内壁だ。僕を守ってくれる大切な壁だ。それが内側から崩れ落ちることなど許されない。崩れかかった内壁は自らの手で直さなければならない。自分を守るのは自分だけだ。外部からの闖入者ばかりが敵ではない。内部こそ最大の敵なのかもしれない。内なる自分が腐れ果て内側から自分が滅びゆくことなどあってはならないのだ。僕はそう思った。
接着剤が効いてきたのか、内壁が捲り上がることはなくなった。ほっとしたのか僕はしばらく横になって目を閉じた。昨日と今日の疲労を癒すために眠らなければならないと僕は思った。
しかし、目を閉じたところで眠れるというわけではなかった。ここ最近、僕には眠りの感覚が欠けていた。また一方で、意識が覚醒しているという感覚もまったくないのだ。つまり、眠っているのか覚醒しているのかさえもかわらない境目で彷徨い続けながら生きているといっていい。それが僕の生きている世界だった。だから、僕の世界にはいつも不確かな現実が紛れ込んでいる状態なのだ。一つの出来事が過ぎればまた別の出来事が立ち現われ、通り過ぎていく。すべては辻褄が合うこともなく、それは無関係に消えていく。僕の時間はあらゆる不確かな現実が入り乱れながら流れているのだ。僕の部屋を突然ノックして受け取りたくもない郵便物を受け取るまで郵便配達人がドアの前に立ち続けていたり、今まで勤務していたはずの郵便局に僕が働いていなかったという言い分を局長代理が頑なに譲らなかったり、不当なまでの立ち退きを強いる暴力団らしき鮫島がいたりと、不可解な夢から覚めた後でも、僕の世界には理不尽な出来事が起こり続けた。こうした出来事が現実であったのか夢であったのさえも僕にはわからない。現実と夢が未分化状態で再統合できないままなのだ。すべては境目だ、境目こそ闇である。現実なのか夢なのかさえもわからぬ眠りこそ、僕にとっての闇である。眠りに落ちることは、底なし沼に落ちることである。
そうした眠りの中でまたわけのわからない出来事が待っているのかもしれない。眠りは荒唐無稽だ。荒唐無稽の世界に僕はまた落ちていくことになるのだ。僕はいったい誰で、どこに行くのか。闇は何も教えてくれない。僕にとって眠りとはそうした世界だった。どこまでも続く闇の世界を目的もなく歩いていくことには耐えられない。僕はそう思った。
とはいえ、今日という現実でさえ、僕に直面した出来事は理解できない現実だった。現実というより、夢としか言いようがなかった。僕が今から眠りに落ちようが落ちまいが、僕の世界は闇そのものなのではないか。いや、本来、世界とは闇のリアリティへ向かって歩みゆくだけのことなのではないか。そうだとすれば、闇の世界にどっぷりと浸からなければならないのではないか。なぜなら、闇とは底なし沼だから。その沼に自分の身を投げたら最後、どこまでも降りていく。どこに辿り着くかもわからない。それは行先を指定する押しボタンのない、降りていくだけのエレベーターのようだ。目的地の定まらないエレベーターほど恐ろしいものはない。僕にとって闇とはそういうものだった。闇は掘り起こせば掘り起こすほど、得体の知れぬ存在をあらわにし、僕を呑み込もうとする。闇は僕の前で君臨し、僕に媚びることもない。闇という存在自体が何かを主張するだけだ。果たして人は闇に耐えられるのだろうか。いっそのこと、確かな世界へと身を投じたほうが楽なのではないだろうか。死という確かな世界へと。死はその瞬間から時間が絶たれている。今まで流れてきた時間がある日とつぜん絶たれることが、死だ。しかし、絶たれた時間はもはや時間ですらない。時間は流れるからこそ時間であり、体験できるものこそが時間なのだ。闇の世界は死の終着駅ではない。生と死の境目を行き来する何かだ。その境目から何を目撃できるのだろうか。それは僕にはわからない。いや、誰にもわからない。死ねばなおさらわからない。
僕はまだ本当の意味で闇の中に降りて行ったことがない。僕という闇を僕の手で掘り起こす覚悟ができていないからだ。いずれ掘り起こさねばならない時期はきっと来るだろう。僕はそう思った。
そんなことを考えていたら、僕はなんだか非常に恐ろしい気持ちになってきた。この恐ろしさから逃げるためにも僕は目を閉じるしかなかった。もちろん、目を閉じたところで、僕の世界は決まっている。荒唐無稽な世界は僕の世界なのだ。結局、何も変わったことはないのだ。脅えることなど何もない。眠れることもできない、覚醒することもできない世界へと身を投じることなしに、僕は僕の世界を生きることはできないのだから。
僕は目を閉じる。目を閉じても世界は広がらない。僕の世界だけが流れていくだけだろう。僕はだんだんとうとうとしはじめてきた。すると僕の目の前にある世界が立ち現われてきたのだった。
僕が闇の中で何かに脅えながらしゃがみ込んでいる。辺りは誰もいない。
ここは僕のアパートのようだ。明かりは点いていないけれど、確かにここは僕のアパートのようだ。
僕が誰かを待っている。無人駅のプラットフォームのベンチで電車が通り過ぎていくのを待つかのように。
すると、近くから踏切警報音がけたたましく響き渡る。いや、それは踏切警報音ではない。携帯電話のベル音だ。(続く)
連載小説第7回 筒抜け
山田 育男
「以前に申請されました生活保護の件ですが、提出された書類に何やら不正が判明致しましたので、受理できません。受給が困難になりました」
突然、ある男から僕の携帯電話に奇妙な連絡が入ってきた。
「あなたはいったい誰ですか?」と僕が訊ねる。
「わたくしは○○区生活福祉課職員でございます」電話の向こうからフッと嗤った声が微かに聞こえる。
「失礼ですが、生活保護の申請をしたことはありませんが」
僕は○○区生活福祉課職員によるとつぜんの電話に戸惑いを隠し切れない。いや、電話に戸惑ったというより、僕の携帯電話の番号を○○区生活福祉課職員がなぜ知っていたのかが僕をさらに驚かせる。
外部との接触を閉ざしていた僕にとって、僕の携帯電話の番号を知っているのは、僕の両親以外にいない。個人情報が漏れない限り、○○区生活福祉課職員が僕の携帯電話の番号を知るはずはない。
「とにかくもし不正が事実ならば、大変なことになります」
「申請をしたのは、本当に僕なのですか?」
「あなた以外に誰がいるというのですか?」
「そんなはずはありません。僕は、仕事や買い物、映画にだって行っていない。つまり、家の外に出たことがないのです。申請することさえもできない」
「あなたがひきこもりであることはすでに存じています。説明をする必要はございません」
ひきこもりとは言っても、僕はいわゆる「社会的ひきこもり」には属していない。
「あなたが『社会的ひきこもり』であるかはどうでもよいことです」
「いや、その区別は大きな違いです。僕はここ最近・・・」
「外部との接触を閉ざしていたんですよね」
「ええ、外部との接触どころか、ほとんど親にだって会っていないんですから」
「あなたが何らかの覚悟でご家族とのコミュニケーションを断ち切ってしまったかについての理由はどうでもよいのです。それは保健所か都内の地域若者サポートステーションの仕事です。あくまでもわたくしたちは生活福祉課の職員なんですから」
○○区生活福祉課の職員にしては一方的な会話だ、区の職員であればもっとやさしく区民に話すはずだ、区の職員は区民からのクレームやトラブルをもっとも嫌う、もし僕のことでトラブルが発生したら、今僕に電話を掛けている職員だけでなく区の問題になるはずだ、臭い、これは臭いぞ、何かあるかもしれない。
「区の職員だからと言って、区民全員にやさしくなれませんよ。いいですか、あなたは生活保護の不正支給を企んでいるわけですし、区民税だって払っていないではないですか。臭いのはあなたのほうですよ」
たしかにそうだ。何も働いていないわけだから、国民の義務を果していなかったぞ。えらいところをつかれたな、と僕は戸惑いを隠し切れない。
「国民の納税義務を果たしていないあなたはそれだけでも疑わしい人物です。それに、携帯電話料金だって、あなたが払っているわけではない。親が払っているんだ」
携帯電話が解約されていないところを考えれば、○○区生活福祉課職員の言う通りだ。
でも、携帯電話なんて僕には必要ないわけだ。すべての人と接触を拒んだんだから。
「それは、親が僕のコミュニケーションツールの切り札として解約していないというだけではないですか。僕には携帯電話なんて、必要ない」
「では、あなたはなぜ今ご自身の携帯電話を取って、今こうしてわたくしと通話をしているのでしょう。これはおかしい」
○○区生活福祉課職員は僕の拙いロジックを突いてくる。いや、これは区のマニュアルにしっかりと書いてあるのかもしれない。どんな時に、どんな対応をすればいいのかが区の職員だ。読破しているにちがいない。人と関わっているかぎり、クレームやトラブルは付き物だ。ましてや○○区生活福祉課職員だ。毎日、ホームレス対応に追われているだろう。もはやクレームやトラブルだらけのセクションだ。僕は、○○区福祉課職員を気の毒にさえ思う。
「毎日、百名以上の人のホームレスの方の対応に追われています。一人ひとりの実情をしっかりと聞きたいところですが、そうもいかないのが現状です。あなたは離職者ですね。離職者だからってすぐに生活保護の申請のために生活福祉課に来られても困りますよ。ここは最後の安全網。あなたは第二のセーフティーネットである住宅手当制度が似つかわしい。というより、住宅手当相談窓口につなげた方がわたくしたちにとって好都合、つまり、楽なんでね」
「盥回しじゃないですか。区民を何だと思っているんですか」僕は住宅手当がどんな制度かわからなかったけれど、なにやら○○区生活福祉課職員が僕を邪魔者扱いしていると感じ、苛立った。
「盥回しって言いますが、ホームレスの方は住宅を持っていません。要するに、住所がないわけです。これは、とどのつまり、○○区民であるかどうか疑わしいわけですよ。しかし、生活保護というのは、今、困窮している状態をその場でなんとかしよう、という制度です。現在地主義を取っているわけです。住民票が他の県にあったとしても、『帰れ』なんて言いませんよ」
でも、生活保護を受給してもらいたい人にしてみれば、福祉課へ行っても相手にされない。住宅手当相談窓口に流されるわけだ。住宅手当相談窓口だって、相手にしてくれる保証なんかない。そうすると、また別のセクションに盥回されることだってあるだろう。
「たしかにあなたが考えるように、住宅手当相談窓口だって、すべての人を受け入れているわけではないです。離職者であるということが条件です。しかも、平成一九年一〇月一日以降に離職した方です」
なんの根拠があって、平成一九年一〇月一日なんだ。平成一九年九月一〇日の離職者は対象外というわけか。馬鹿げている。
「大変申し訳ありませんが、対象外になりますね。住宅手当制度は、二〇〇八年秋にリーマン・ショックが起き、いわゆる『派遣切り』で解雇された労働者が寮を追い出されたわけです。仕事を見つけないと生活できないから就職活動をするんだけれど、住居がないから面接も受けられず、就職できない。こういう状況になったわけですよ。だから、この制度は、住宅を喪失している方又は住宅を喪失するおそれのある方に対して、再就職へ向けた支援を行っている制度です。それが前提で住宅手当を支給するんですね。だから、この制度の目的は『就労』なんです。住宅手当制度の対象者は就労能力及び就労意欲のある方です。生活保護制度と住宅手当生徒の線引きはまずここにあります」
いずれにせよ、どちらの対象要件にも該当しない。大学卒業後、少なくとも五年間は働いてきたし、住む家だってここにある。今後どうなるかわからないけれど、今のところ、生活保護を受ける必要性はない。
「では、あなたはなぜ生活保護の申請をされたのですか?」
「何度も言いますけれど、生活保護の申請はしていません」
「ところで、あなたが住んでいる家ですが、誰の名義ですか?」
「父親です。ここは僕の実家ですから」
「あなたの家にはあなた以外、誰も住んでいませんよ」(続く)
連載小説第8回 筒抜け
山田 育男
そんなはずはない。毎日、父親と母親は決まった時間に部屋のドアをノックし、ドアの前に黙って食事を置いていくんだ。時々、「もうそろそろいいでしょ? あなたが悪いわけではない。あなたがそうなったのは、世間様のせいなんだから。仕方がないことなんだよ。ねぇ、だから早く出ておいでよ」と小さな声で訴え掛けてきていた。父親の時もあれば、母親の時もある。
「毎日、男性と女性が入れ替わりで来るんですね」
「父親と母親です」
「あなたのご両親は、福岡県宗像市在住です。ここは東京都ですから。わたくしは宗像市生活福祉課職員ではなく、○○区生活福祉課職員です。もしあなたが宗像市在住でしたら、わたくしの管轄外です。宗像市生活福祉課職員が生活保護の件であなたに電話をするはずです」
僕は状況を読むことができない。いったい何が起きているというのだ。ここは自分の家ではないのか。父親と母親だってまだ健在だ。
「たしかにあなたのご両親は健在ですよ。すでに確認は取っています」
「何の権利があって人の家の両親まで調査しているんですか」
「生活保護申請を受理するには、保護者に確認の連絡を入れなければならないことになっていますから。ご両親はそんなに生活に困っているんだったら帰っておいで、と言っています。良いご両親じゃないですか。そんなご両親を悲しませたらいけませんよ、あなた」
言っていることがさっぱりわからない。ここはいったいどこなのだろうか? そんなことより、今、こうして僕に話しかけている電話の相手はいったい誰なのだろうか?
「わたくしは○○区生活福祉課職員の不知火と申します」
いや、だから、○○区生活福祉課職員の不知火さんが何の企みで僕を貶めようとしているのか、ということなんだ。その理由がさっぱりわからない。
「もう一度、申し上げます。あなたは生活保護の不正支給を企んでいます」
もう我慢できないぞ、いいかおぼえておけ、不知火さん。直接、○○区生活福祉課窓口に足を運んでおまえの上司に文句を言ってやるからな。僕の怒りは頂点に達する。
「お待ちしています」
○○区生活福祉課職員の不知火は僕にそう言うと、一方的に電話を切る。
僕は一方的に切られたことでさらに怒りが浸透し、着信履歴が非通知でないことを確かめ、○○区生活福祉課に折り返しの電話を入れる。
「はい、○○区生活福祉課・鈴木でございます」
「あのー、生活福祉課の職員で不知火さんという方はいらっしゃいますか?」
「不知火ですか? シラヌイ? そういった名前の職員はこちらにはいませんが・・・」
「いない? そんなことはない。今さっき僕の携帯に電話をしてきた不知火さんですよ」
「ああ、はい、しかし、わたくしたちの課には不知火というものは・・・」
「いないんですね」
「さようでございます」
「それはおかしいですね。今掛ってきた着信履歴は○○区生活福祉課の電話番号なんですよ」
「はあ・・・、そうなんですか? どんなご用件だったんでしょうか?」
「生活保護の不正支給を企んでいるということらしいんですけれど」
「そういう方もいらっしゃいますね。ところで、あなた様が不正支給を?」
「だから、していませんよ」
「失礼致しました」
「お願いですから、このようなことで二度と僕の携帯に電話をされると困りますから」
「あなた様に電話をした職員がいたかどうか確認致しますので、少々、お待ちいただけますか?」
僕はしばらく待っていたが、いっこうに返事がない。
すると、僕の部屋のドアを叩く音が聞こえる。僕はいつものことながら、リアクションをせず、黙っている。黙っていれば、親はドアの近くに朝食を置いてくれる。
しかし、様子がおかしい。今日にかぎって、ドアを叩く音はけたたましく鳴り響き、リアクションがあるまでやめようとしない。
「そこにいるのはわかっているんだよ。もうそろそろ出てこないと、不法侵入で訴えてもいいんだ」
ドアを叩いているのはたしかに父親の声らしい。
「何をおかしなことを言っているんだ。息子が自分の家に住むことが不法侵入なんて聞いたことがない」
「何寝言を言っているんだ。お前さんが僕の息子だって? 馬鹿なことを言っちゃいけない。おれは会社のものだ。すでにお前さんは解雇されているんだぞ。それなのに、この寮を占拠しているんだ。これ以上は待てない。今日こそは出ていってもらう」(続く)
連載小説第9回 筒抜け
山田 育男
会社のものだか親父だかなんだか知らないけれど、僕はこの部屋から出ないと決心したんだ、と僕は引かない。
それは井伏鱒二の山椒魚の覚悟だ。山椒魚は棲家である岩尾から外へ出ようとしたけれど、出口が狭く、頭が出口につかえて外に出ることができなかった。決心がつき、いよいよ出られないというのであれば俺にも相当な考えがあるんだと呟き、何一つとしてよい考えがあるわけではないけれど、山椒魚は岩尾にひきこもった。僕がこの部屋にひきこもったのもまさに山椒魚と同じなんだ。
出入口が塞がれ、ひきこもりの覚悟を決めたのが山椒魚だったけれど、解雇処分を受け、部屋から出されてしまうかもしれない僕も出入口を塞がれている。僕はそうした自分の立ち位置に何一つうまい考えがあったわけではなかったけれど、部屋にひきこもることもみずからの存在を確証するふるまいだと思った。
そうだ、僕は寒いほど孤独な道を選んだのだ。
山椒魚はまだいい。閉じ込められても蛙がいた。氷炭相容れない者同士と一緒に過ごすしかなかった山椒魚には共存する相手がいた。山椒魚には救いの光があったけれど、僕には誰もいない。外へ放り出されても頼る相手すらいない。僕は山椒魚にも救いの光があるはずなんだと思い込みたい、閉じ込められたって誰かが一人でもいてくれるだけでいい、それだけで生きられるのだ。それが出入口のない僕の救いであるのだ。
人はそんなにすてたもんじゃありませんよ、と会社のものだかなんだかわからない男は言うと、そうよ、この人の言うとおりだわ、助けてもらいたいときに勇気を出して支援を求めれば誰か一人は手を差し伸べてくれるわ、と女が同調するので、これは罠だ、と僕はすぐに思う。
「罠ではありません。あなたのために言っているんですよ」
お母さんはあなたのために言っているんですよ、と僕の母親はよく言ったものだ。しかしそれはたんに親の物語を押し付け、人を呪縛させる言い方だ。そうした親の物語の支配こそが僕をダブルバインドの状態に追いやってきたのだ。女のロジックも同様だ。巻き込まれるわけにはいかない。
「勘違いしないでもらいたい。われわれはきみを罠にかけているのでも巻き込んでいるわけでもない。きみは派遣切りにあって、すでに解雇処分が会社側から言い渡されている。本来なら解雇処分を受けた時点で寮から出ていってもらうはずなんだ。それをきみは抵抗し、この部屋にひきこもっているだけじゃないか。われわれは法律に基づいてきみに言い渡しているんだよ。現にきみは会社で働いていないし、解雇処分後、この寮の家賃だって払っていないじゃないか」
借地借家法では入居者の居住権を保障している。家賃を一~二ヶ月滞納したというだけで入居者を退去させることは法的には不可能だ。カギ交換や荷物撤去だってやってのけたのが、あなたがただ。ここに住んでいた人たちはあなたがたの論法に渋々従っただけじゃないか。喜んで出ていったわけではない。
「しかし、きみねぇ、きみがこの寮にひきこもってからどのくらい経つかわかるよね、二年間も経っているんだよ。われわれにも行き過ぎた点があったことは認めるけれど、二年間の滞在は認めていないわけだよ。要するに、二年間、きみは家賃を滞納しているっていうことなんだ」会社側の男は語気を強めて迫ってくる。
何やら話の展開がおかしくなってきたようだ。いつの間にか僕は解雇処分を言い渡された派遣労働者になっているではないか。しかも、退去通告を受けながらも寮を二年間も占拠する不届き者に成り下がっているぞ。たしかに僕は部屋の中にひきこもっていたことは事実なわけだ。ここは僕の家の、僕の部屋だ。それが知らぬ間に派遣社員の寮と化している。僕は動揺する。
どうやら知らぬ間に自分の部屋から出ていかなければならない状況に追いやられている。生活保護不正支給からはじまり、今度は寮追放である。覚悟を決めたはずのひきもりもついに断念せざるを得なくなってきた。
会社側のものらしい男に荷物をまとめることを言い渡され、僕は今ここを出ていかなければならなくなったのだ。覚悟を決める前から人に方向づけされ、あわてふためき、僕はホームレス生活に落とされてしまうのだ。僕にだってプライドがある。ひきこもりになったのは僕なりの理由があったからだ。家から孤立したひきこもりでも社会的ひきこもりでもない。僕は確信犯的なひきこもりだ。僕の覚悟には社会へのメッセージがあったはずだ。たんにバリケードでアパートを占拠していたわけではない。会社当局に対するレジスタンスなんてカッコイイものでもない。ひきこもりは自由意思だ。出入口が塞がれてしまった者の命がけの飛躍だ。しかし、僕の思惑は簡単に打ち砕かれた。ひきこもりには反抗する力もない。働けないのはお前のせいだ、自分でひきこもりになったのにそのくせ生活保護まで受給するなんてムシがよすぎる、手前の自己責任なんだから、自分のケツは自分で拭け、と誹謗中傷まがいの抗議が僕に浴びせかけられる。僕はたんに打ちのめされるだけなのか。めげているしかないのか。会社側の言い分を無防備に受け入れ、外に放置された挙句、ホームレス生活を強いられるだけなのか。
めげるわけにはいかない。僕だってプライドがあるんだ。社会のあらゆる事柄から逃れ、僕はひきこもりとして生きることを選択したんだ。生きるべきか、死ぬべきか。それが問題なのか。いや、生きているのか、死んでいるのかさえもわからない。それが問題なのだ。そのためにはまず、仕事だ。仕事さえあれば、なんらかの住まいだって見つかるにちがいない。カプセルホテルだってネットカフェだって、要するに一時的な緊急宿泊施設だってあるのだ。もちろん、それが本質的な意味でホームレス状態ではないと誰が言いきれるだろうか。それは屋根があるかないかの違いだけで、ホームレス状態から逃れられたわけではない。
「今だ!」(続く)
連載小説第10回 筒抜け
山田 育男
その声とともに僕の部屋のドアが蹴られ、大男が部屋に侵入してくる。僕は縄で縛られてしまったかのように大男の腕で抱え込まれ、素早くスーツケースの中に詰め込まれる。それは一瞬の出来事だった。スーツケースの中で暴れることさえできない。暴れたら最後、酸欠状態になるだけだった。僕はされるがまま静かに様子をうかがっているしかなくなる。
僕は真っ暗闇の中に閉じ込められ、出入口が塞がれた状況で眠ってしまったのだった。
僕は覚悟を決められぬままスーツケースの中に監禁され、理不尽なまでの仕打ちに悲しくなってきた。
こうして監禁されたまま息もできずに死んでしまうのだろうかと考えていると、地面に叩き落とされるような激しい衝撃があった。その衝撃でスーツケースの鍵が壊れ、僕は閉じ込められたスーツケースから脱出することができた。一瞬、僕の視界は真っ白くなり、ピンボケしたレンズのように外の世界は何も見えなかった。ずっと暗闇生活が長かったせいだろう。立ちくらみがした。頭がクラクラし、歩行も覚束ない。僕は久しぶりのシャバの世界にリアリティをまったく感じない。フラフラ状態で歩く姿はどこか夢遊病者のようだ。今歩いているところがどこなのかさえわかっていない。ぬめりとした足の感触だけはわかる。シャバがこんなにもシャバでない感触をしたのも僕ははじめてのことだった。シャバというよりあの世だ。裸足で歩く感触が不自然でならない。しかし、僕は地面のぬめり感を確かめながら、とにかく前に進むことだけを考えている。
誰かが追いかけてくるに違いない。後ろを振り向きたかったけれど、怖くて振り向くことさえもできない。あの大男に捕まえられ、また監禁されては適わない。とにかく走り続けるしかない。しかし、僕の右足と左足の歩行はぎこちない。気持ちと足がアンバランスのために僕は何度か地面に倒れてしまう。すぐに立ち上がり、また走り続ける。その繰り返しだ。
僕はシャバの世界に監禁された。いずれにせよ、僕は監禁された世界から逃れられたことができないのだ。いや、僕はいつもどこかで尾行され、監視されていたのではないか。もはや得体の知れぬ存在から逃げ切ることなどできない。スーツケースから脱出できたわけだけれど、実はどこからも脱出できたわけではないのだ。今こうして走り続けている姿を誰かが監視しているに違いない。今この道で僕とすれ違った人が僕の監視員でないと誰が言いきれるか。電車の中であれ、バスの中であれ、映画館であれ、僕を監視している存在がいるはずだ。そうであれば僕の隣にいる人ならば誰でも疑うに値する存在であるに違いない。日常なのかフィクションなのか。そんな境界線は絶たれている。
だとすれば今僕は何をすべきなのか。
そうだ、まずは生きるために働ければならないのだ。僕は単純なことを見落としていたのだ。
追い出されてしまったかぎりはなんらかの方法で働かなければならない。バイトとはいえ、今はなかなか見つからない。すると、なぜだか僕の目の前にポスティング会社の看板が現れたので、そうだ、すぐにでもやれるバイトといえばポスティングの仕事しかない、チラシ配布で一ヵ月は生活をつなげるしかない。
すぐにポスティング会社の事務所へ入るやいなや、きみ、久し振りじゃないか、あれからどうしたのか心配していたよ、とポスティング会社の社長は僕の肩をポンと叩く。どこかで社長と会ったわけではなかったけれど、いやあ、また派遣切りにあいましてね、アパートを追い出されてしまったんですよ、と僕が照れ臭そうに応えている。このご時世じゃ、すぐにバイトも見つからないよな、まあでもいつまでもこんなバイトばかりじゃ同じことの繰り返しだししっかりとした職を早く見つけねぇとなあ、と社長は僕に釘をさしつつ、生活のタシになるかわからないけれどまたやってみるかここで、と社長は僕の気持ちを汲み取ったかのようにバイトをすすめてくるので、助かりますよ、このままだと野垂れ死にですからね、アパートの初期費用くらい自分で工面しないと、と僕が言う。じゃ、頼むよまた、今日からできるかい、と社長は切り出してきたので、何から何まですみません、助かります、と僕は社長に礼を言う。
ポスティングの仕事といってもたんにチラシをポストに投函する仕事ではないようだった。チラシ配布員が本当にチラシをポストに投函しているか確かめて監視する仕事もポスティングの業務だった。チラシ配布員が郵便ポストにチラシを投函する姿を後ろから尾行し追跡する。それが僕の仕事なわけだ。ほとんど張り込みの刑事か秘密探偵の気分だ。チラシ配布員がチラシを投函した後、まわりの住民を気にしながらポストに近づき、ポストの中からチラシが入っているかを確認するために一度取り出してデジカメで撮影する。人の家のポストからチラシを取り出してデジカメで撮影するんだから、怪しい仕事に違いない。マンションの住民からすれば不審者だ。ポストには個人情報が山ほどある。郵便ポストの中を覗けばその人の生活状況が透けて見えてしまう。誰も自分の恥部を覗かれたくはないだろう。だから、僕の存在を見つけた住民は、お前何やってんだ、人のポストの中を漁るなんぞ不法侵入だ、泥棒だぞお前は、なんて怒鳴られることだってある。わりに合わない仕事だけれど、生きるためには仕方がない。やるしかないのだ。(続く)
連載小説第10回 筒抜け
山田 育男
高級マンションに入っていく男を僕が尾行している。男はチラシ配布員だ。
チラシ配布員は早めにチラシ配りを全うするために小走りでマンションを駆け上がり、一軒一軒ポストにチラシを押し込みんで、入ったか確認しないまま次のポストへ移るので、入れた後勢いあまってポストからひらりと地面に落ちてしまう。チラシ配布員は一度ためらって落ちたチラシに目をやり、手をチラシに伸ばすけれど、面倒くせぇ、といった表情を見せてチラシを拾うことを断念する。そんなことより早くノルマをはたしてお金をもらいたいといった気持ちが顔にあらわれる。汗をだらだら流すチラシ配布員にとってはポストにチラシを入れることがミッションだからそんなこと関係ない。一日に何枚入れたかが勝負だ。その枚数によって明日の作業も捗るから必死だ。チラシ配布員が必死に入れたチラシは見られないままゴミ袋に入れられるかドアの前に無雑作に投げ捨てられるかのどちらかだ。チラシをつくる側もポストに入れる側ももはや無意味としかいいようのない無様さで、チラシは捨てられるのだ。ぐちゃぐちゃにされたチラシと同じように、チラシ配布員もヘトヘトに疲れ切る。それは消耗品そのものだ。その消耗品の存在を確認する僕はいったい何だ。それ以下かもしれない。無意味にぐちゃぐちゃにされたチラシと、ヘトヘトになったチラシ配布員を追跡し、その無意味なまでの有様を事務所の社長に報告する。それだけの仕事だ。いったい何が面白くてこんな仕事をやっているのかと僕は思う。いや、意味を与えたって仕方がない。いつだって仕事はそんなものだ。そんな疑問をするくらいなら早いところここから抜け出せばいい。自問自答を繰り返してばかりしていれば僕の心がいかれてしまう。
そんな虚しいことを考えているうちに、チラシ配布員は別のマンションへと向かう。僕も追いつかなければならない。僕はチラシ配布員も小走りにもう一つのマンションへ向かう。すると、チラシ配布員はマンションの中に入ろうとするが、突然クルッとターンをし、近くにある自動販売機に立ち寄り、ミネラルウォーターを買っている。ぐびくびと勢い良く飲み干し、何事もなかったかのようにマンションの中に入る。チラシ配布員はマンションの住民に呼び止められ、何やら話をしている。僕は気づかれないように近づき、耳をそばだてる。毎回毎回読みもしないこんなチラシを入れられて本当に迷惑だわ、もうやめてもらえないかしら、と四〇代くらいの主婦がチラシ配布員にいちゃもんをつけ、チラシ配布員の仕事を中断させる。チラシ配布員は時計を何度も何度も見ながらも、何度も何度も、すみません、と謝罪する。チラシを入れなければ社長に怒鳴られ、入れたら入れたで住民に叱られる。何をしたって怒られるのだ。チラシ配布員はポスティングで住民に怒られることも業務内容に入っているといわんばかりに事務的に謝罪をやってのける。チラシ配布員の方が一枚上手だ。チラシ配布員は住民から叱責を受けた後、何事もなかったかのようにチラシをポストに入れていく。それはマシーンのようだ。それに引き換え、僕は何だ。何もしないでただチラシ配布員の足跡を追っているだけ。僕はチラシ配布員に何か落ち度はなかったかを確認するためだけに存在している。ただそれだけのために存在している僕とはいったい何だろうか。
いや、僕はチラシ配布員のためだけに存在するのだ。ポストの中のチラシと郵便物を取り出してしっかりと仕事をしているか監視するためにデジカメで撮影するわけだから、それだけでもポスティング業務の役割を果たしている。チラシ配布員はただたんにポストにチラシを入れるだけだ。僕の業務はチラシ配布員よりも労力がかかっている。ポストから郵便物とチラシを取り出して撮影するだけでも二〇秒は掛かるんだ。その間、チラシ配布員は数軒の家のポストにチラシを入れる。僕はどんどんチラシ配布員から離れていき、その距離を縮めるためにチラシ配布員よりも作業の速度をあげなければならず、作業量もハンパない。チラシ配布員がしっかりと業務に徹していることを社長に報告することでチラシ配布員の株もあがるんだ。だから、僕はチラシ配布員に褒められてもおかしくない存在だ。そう思うと、どこか晴々しい。
チラシ配布員のポスティングエリアは僕が住んでいるアパート周辺に入る。僕の郵便ポストにチラシを入れる。チラシ配布員はこの郵便ポストが僕のポストだとは気付くまい。一〇三号室は僕だ。一〇三という数字は僕の個人情報を冷たく隠す。数字に顔などない。しかし、番号が僕なのだ。名前なんて必要ない。あくまでもここは僕の仮の宿だ。アイデンティティではない。だから、チラシ配布員が僕のアパートに関心なんかないはずだ。チラシ配布員は一〇三という記号をチラ見しただけで、一〇四号室のポストに視線を移す。それでいいのだ。チラシ配布員は別の住宅街へ向かう。何事もなかったかのように。僕は一〇三号室のポストに歩み寄る。撮影のためだ。デジカメをバックから取り出そうとするやいなや、左の路地から郵便配達人が現れる。どこかで見かけたことのある郵便配達人であるが、僕は誰なのか忘れている。郵便配達人は僕の郵便ポストの前に立つ。僕に気がついていないようだ。郵便配達人はポストに手紙を入れるフリをして、それを右のポケットに押し込み、左のポケットから別の茶封筒を取り出す。手紙を取り換えているようだ。郵便配達人は何事もなかったかのように別の家の郵便ポストに郵便物を入れて立ち去る。僕は郵便配達人が左の路地を曲がったことを確認する。僕は一〇三号室の郵便ポストの中に手を伸ばす。手紙が一通入っている。
手紙の差出人は文字がぼやけてわからない。誰からのものだかわからない。あの郵便配達人が入れ替えたものだなと感じる。すぐにでも手紙の中を確認したい気持ちに駆られたけれど、今はチラシ配布員の後を尾行するのが僕の仕事だ。怠慢は許されない。僕は郵便配達人が入れ替えた手紙を胸ポットに入れ、チラシ配布員の後を追う。
五〇メートル先にいるチラシ配布員は仕事を終え、ポスティング会社の事務所へ入る。僕もヘトヘトに疲れ切った身体で事務所に入る。おかえり、と社長は僕に声を掛ける。戻りました、と僕は応えると、お疲れ様です、チラシ配布員がタオルで顔を拭きながら僕に声を掛けてくる。お疲れさん、今日も大変だったね、と僕はチラシ配布員に労を労う。チラシ配布員は社長から給料を受け取ると事務所から立ち去る。(続く)
連載小説第11回 筒抜け
山田 育男
これから僕は今日の仕事の日誌を書かなければならない。報告はいつも無味乾燥だ。僕が見てきたそのままを記述するだけだ。報告に脚色があってはならない。それがあればチラシ配布員が社長から呼び出される。もちろん、チラシ配布員も今日の仕事状況を日誌に報告している。僕の報告とチラシ配布員の報告とを照らし合わせ、食い違えればまず僕が社長に呼ばれる。きみ、ちょっと、と社長はチラシ配布員を呼んだ。ここで彼は自動販売機に立ち寄ってミネラルウォーターを飲むと記述しているけど、缶コーヒーではなかったのだね、と社長は僕に問い質すので、ええ、缶コーヒーではありませんでした、と僕は言う。いつもの日誌には缶コーヒーをきまってこの場所で飲んでいると書いているね、なぜ今日にかぎってミネラルウォーターなのか、確かにミネラルウォーターかい、缶コーヒーじゃなかったんだね、と社長はくどい。そんなことどうでもいいじゃないか、たまたまミネラルウォーターを飲みたかっただけだろ、と僕は思ったんだけれど、社長は僕に畳み掛ける。いいかね、彼が缶コーヒーを飲もうが、ミネラルウォーターを飲もうが関係ないわけ、そんなの彼の勝手だ、いくら習慣だといってもミネラルウォーターを飲みたくなってしまうことだってあるだろ、そんなことを問い質しているんじゃない、缶コーヒーであったはずなのにミネラルウォーターだと勘違いしているのか、しっかりと銘柄まできみが見ていなかったのでいい加減な報告を書いているのか、どちらなのかということだ、こうしたちょっとした日誌の記述からきみがしっかり仕事を全うしているかがわかってしまう、いい加減にチラシを入れているやつもいるが、監視しているやつだっていい加減だったらきみの役目って何だね、きみの存在がいるから彼の存在も成り立っている、いいかい、彼はきみの存在をすでに知っている、彼はきみに監視されていることも業務のうちだと思いながらチラシを入れているんだ、彼にとって見られることなんかもう当たり前、街を歩いていたって防犯カメラで撮られている時代だ、いつどこでも自分が見られているかわかったもんじゃない、わたしだってね、ここできみにICレコーダーで声を録音されているかもしれないということを前提に話している、彼の報告には缶コーヒーと書いているわけだが、きみはどうしてもミネラルウォーターだと言うのだね、と社長は言うので、はい、そうです、缶とペットボトルを間違えるわけがありません、と僕は言う。だとすると、別のどこかで缶コーヒーを飲んだんだけれど、このマンションの前の自動販売機ではなかったということかもしれない、と社長は話を整理する。そうなんだと思います、と僕は言う。それであればきみ、この報告には自動販売機に立ち寄った記述が一回、しかし彼はポスティングの途中で二回自動販売機に立ち寄って喉を潤っている、このズレは何かね、と社長は追求し続ける。わかりません、僕の仕事は彼が自動販売機で何を飲むかを監視することではなく、彼が郵便ポストにしっかりチラシを入れたかを確認することです、それさえ全うすれば業務怠慢とは言えないと思うんですよ、現にデジカメにだってその事実は残っているわけですから、とこうした僕のロジックを気に入らないのか社長は、つべこべ言うな、とにかくきみは彼の振る舞いまでしっかり記述することだ、きみのように中途半端な監視をしているから彼も落ち着いて仕事ができないんだ、監視しているかしていないかではダメなんだ、監視する監視しないもない、そうした世界ではじめて監視は成立するんだよ、とわけのわからない現代監視社会論を語りはじめてくるので、あのー社長、今度はしっかりやりますから、今日はもういいですか、これから用事が、と僕は帰り支度をしはじめる。僕は早く家に帰って先刻の郵便配達人が入れ替えた手紙を読みたいんだ、しかしそんな僕の事情なんかお構いなしに、これだからきみは日雇いから抜けられないんだぞ、と社長は説教を垂れるので、大きなお世話だ、と思いながらも、そうですね、気をつけます、と僕は言ってすぐに事務所を出る。先刻、郵便配達人が差し替えた手紙がずっと気になっていたからだ。
僕は急ぎ足で僕のアパートへ向かう。しかし、どうした訳か、僕のアパートが見つからない。さきほどチラシ配布員の尾行で通過した僕のアパートは何処へ消えてしまったのだろうか。僕の気持ちが焦れば焦るほど、僕の気持ちに反して僕の足はまったく逆方向に動き、目的地に辿り着こうとしないようだった。なぜなのか僕にはわからない。わからないけれど、とにかく僕の身体を信用して歩き続けるしかなかった。
僕は二時間ほど訳がわからず歩き続けてきたけれど、ここがどこなのかさえわからない。何処に向かって歩いているのかさえわからない。ここはどこだ? ここはたしか高田馬場の戸山公園か? 戸山公園と言えば、寄せ場だ。そうか、僕は仕事を探さねばならなかったのだ。僕の身体は無意識のうちに何らかの仕事にありつけるだろうと考え、僕はがむしゃらに仕事の斡旋場を探していたのだ。いや、それだけのためだろうか。仕事のためだけではない。仕事のある場所には人が集うのだ。人と出会うために仕事を探す。生きているのか死んでいるのかさえもわからないことが問題だったのは、仕事にありつけないことで餓死してしまうことではないのだ。職場の中にこそ、人がいる。人が人を育てる。育てられた人が人を育てる。こうしたごく当たり前の姿が職場ではなかったか。僕は仕事を求めていたのではなく、人を求めていたのではないか。僕ではない誰かと出会うことが僕の世界を突き破ると僕の身体は考えたのではないか。僕の考えだけでは僕の世界のままだが、僕の身体は他者を求めている。そうであるに違いない。僕が郵便配達人の手紙を早く読みたがっていたのも、僕の身体が他者の声を聴きたがっていたのかもしれない。僕はどうやら僕の世界の出口を見つけようとしているようだ。
「ここはもう寄せ場の機能を失いつつあるよ」
どこからか声が聴こえてきた。いったい誰だ?
「リーマンショック以降、仕事もなくなっちまったのさ」
誰かわからないけれど、たしかに声が聴こえる。
「それ以前ならここにいれば誰かが声を掛けて仕事をくれたもんだ、もう誰もいやしない」
僕でない誰かが僕の歩き続ける足取りに待ったをかける。
「おれもきみと同類だよ」
僕にやさしく囁きかけるあなたは誰だ。誰でもない、何もかも失ってしまって何もない、何もなければ誰でもない。誰でもないあなたはなぜここにいるのか、と僕はあなたに問いかける。誰でもないからここにいるんだ、とあなたは僕に言う。あなたのトートロジックな言いぶりにもどかしさを感じないわけではなかったけれど、おれはきみと会えて光栄だ、おれは何もない、仕事もなければお金もない、着ている服だってそこらへんに捨ててあったものを汚れたおれの身体にあてがっているだけさ、きみには何の利益にもつながらない貧乏神だよ、とあなたはそう言うけれど、僕はあなたがいるだけでいい、あなたはあなたのままでいいんだ、と僕はあなたに言う。おれという存在そのものがゴミのようなもの、そのゴミ屑のおれの存在を認めてくれるのかい、それは光栄だ、とあなたはニッコリと笑みを浮かべ、結局、人は何もなかったところからはじまったんだ、と付け加える。僕だって消耗品のようなものだよ、でもところであなたはどのようにして何もなくなってしまったんだい、と僕はさらにあなたに問いかけた後、でも応えたくなかったら応えなくってもいいんだよ、と僕は付け加える。その前にはい、とあなたはボストンバックの中に入ったものを取り出す。コンビニで売れ残った弁当、食べながら話そうよ、とあなたは僕に弁当を渡す。ホームレスっていっても結構食べるものには困らないんだよね、なんだかんだいったって食べ物にありつけるもんなんだ、とあなたは自分の分もバックから取り出して公園のベンチで幕の内弁当をむしゃぼりつくように食べはじめる。あなたはずっと路上生活なの、と僕はあなたに問いかける。二〇〇四年からずっとだ、とあなたはご飯を頬張りながら応える。この公園に住み着いているってこと、と僕は訊ねる。いやいや、遊牧民のように移動しているんだよ、そんなことより、きみも食べたら、とあなたはベンチを半分移動し、ベンチの半分の空間を僕に譲る。僕はあなたからもらった幕の内弁当を抱え、あなたの隣に座る。するとあなたは語り出す。(続く)
連載小説第12回 筒抜け
山田 育男
おれが東京へ来る前、父親は莫大な借金を抱えた、その後両親は離婚して母親と一緒に暮らすことになったんだけれど、すぐに母親が再婚しちまったもんだから家に居場所がなくなっちまってね、それに父親の莫大な借金をかぶらなければならなかったから働いた給料ほとんど持っていかけれたわけよ借金取りにさ、そんな状況から逃げ出したかったのかもしれないけれど、東京に来たところで高卒だし頭は悪いしスキルもありゃしない、これじゃ何も通用しないと思ったね、だから学校に行きたいなあっていう気持ちが自然と湧いてきたわけ、でも学校に行くお金なんてあるわけがない、専門学校に二年間通うためには二二〇万円必要だった、だからお金を借りて学校へ行けるのは新聞奨学生しかないなって思った、それから住み込みの新聞配達をはじめたってわけ、新聞奨学生になると学校の入学金や授業料分の借金を抱え、新聞屋に斡旋されて働くことになる、働きはじめれば働く前に契約した労働条件とは異なっている、おかしいなあって思っても借金があったら辞めるわけにはいかない、黙って働くしかないわなあ、しかしねきみ、一年間、一月二日以外はずっと働き続ける生活を強いられるんだ、私生活なんてまったくない、これは堪らない、冗談じゃない、と思ったんで本社に行ったわけだ、でもまったく相手にしてくれない、こんなことしていたら殺されてしまうって思って、逃げようと思ったことがあった、でもね、住んでいる場所って作業所の二階にある、外に出る時には職場を通らないと出られないという仕組みになっていて、逃げだそうと思っても逃げ出せないたんだ、そうした不満を会社に言えば解雇されてしまうこと請け合いだ、解雇されたらどうなるかわかるかい、借金も請求され、住む場所も失い、挙句の果ては学校も退学になっちまう、労働組合に入って闘うことも考えた、これ安易にやったらどうなるかっていうと、暴力団関係に報復を受け追いまくられてしまうんだ、そうなると学校も行けなくなるし、働くときの連帯保証人は母親になっているのでその報復や借金が母親に向けられてしまう、父親の借金から息子の借金を母親がかぶることになってしまう、これはとんでもない、母親だって一人の女性、やっと再婚相手を見つけて幸せだってのに、だからさ、僕は働いて働き抜いてヘトヘトになって生活をしなければならない状況に追いやられたってわけ、要するに、これは働きながら孤立しているのと同じだよ、同じ職場で働いている人もいたけれど、新聞配達の人間関係なんて期待できないよ、いろんな経緯で新聞配達の仕事をしている人たちばっかだったから人格も屈折している、人のぬくもりすら感じられなかった、とにかくきつかったね、だからやっとの思いで借金を返したらすぐに逃げてきたよ、これ以上ここにいたら人格壊されてしまう、そう感じたね、逃げることも大切なことだってある、でも逃げたからといって孤立から逃れられたわけじゃなかった、結局、住み込みの仕事ってのは貧困のスパイラルのはじまりなんだ、住み込みから逃げたら住居がなくなる、住居がないってのは住所を持っていないということだ、住所のない人は正社員として就職ができない、路上生活だけは嫌だから結局また住み込みの仕事を探してしまう、っていう悪循環が続くってわけだね、おればかりしゃべりっぱなしでごめんね、ホームレス生活で人としゃべる機会がなくてね、ずっと七年間人としゃべることがなかったんだよ、ホームレスの人たちはさ、自分たちのコミュニティーをつくりたがるんだけれどおれはその中にはいっちまったらホームレスから抜け出せないと思ってね、それで人と交わることもなかったんだ、そんなことよりきみのそのソーセージもらえるかな、とあなたは僕がああいいよと言う前に爪楊枝で刺して口に入れ、ああそれでね、住み込みも嫌だ、早く就職したいって思ってハローワークに行ったんだけれどなかなか仕事がみつからない、苦労して稼いだお金も底ついてこの有様ってわけよ、ホームレスって外にひきこもっているみたいなもんだ、でもね、おれはそれでも生きることに執着した、地べたに落ちている生ゴミを漁ったり売れ残りのコンビニ弁当、まあ今食べているこれなんかを譲ってもらったりしながら生き延びているってわけ、ホームレスってサバイバルなんだよ、死にたくない、とにかく生きたい、生きるためならなんだってする、極限状況を乗り越えればなんとかなるってね、でもね、おれは人のものを盗むことはどうしてもできない、他のホームレスは知らないよ、おれはできないんだ、これはおれの美学なんだ、モラルなんだと思うね、とあなたはご飯粒を頬につけたまま持論を力説する。
でも、最近、ホームレス支援をする団体が出てきたからなんらかのかたちでホームレスから抜け出ることだってできたんじゃないの、と僕はあなたに言う。するとあなたはまた畳み掛けるように語り出す。たしかに生活保護の申請をしてホームレス状態から抜け出ることもできたわけだけれど、身分証がない、連絡先がない、格好が汚い、就活ができない、要するに生活保護を受けるにも手続きが大変でできないんだよ、ホームレス支援団体の情報も図書館などで知っていたけれど、きみがいる、きみと出会ったことでエネルギーが湧いてきた、今なら支援を求めることができるかもしれない、大人になるとだんだん語ることが少なくなってくる、お互い傷ついた仲間と一緒に語り合い交流し合う相手が必要だ、きみという存在はおれにとっての居場所だ、人生の休憩所だ、人に語れる安心感を得ることで動きも出てくる、そう感じてきた、今までこれほど人が心強いと思わなかった、他人はいつも自分にとって邪魔をしないか邪魔をするかの存在でしかなかった、だから話していても仲間という感覚すらなかった、でもきみはそうではない、とあなたは付け加える。僕は何もしていない、ただあなたの話を隣で聴いていた、それだけにすぎないのだけれど、それだけでいいんだよ、ホームレス生活に至るまでの僕のストーリーを聴いたってなんの得になりゃしない、でもそんなおれのストーリーに関心を寄せて聴いてくれるだけで受け止めてもらえたっていう感触が得られる、つながり合えたんだって、とあなたは空になった弁当箱を持ったままやさしく呟く。(続く)
連載小説第13回 筒抜け
山田 育男
たしかに分断化された個人が孤立していく状況から希望へと転換するには聴き取られ、応答される関係性が必要だ、僕に今まで欠けていたのはまさにそれだ、自分を取り戻していくには手応えのある具体的な他者だ、僕もそのつながりと出会うためにここまで走り続けてきたのではなかったか、何かしていたいという欲求する主体は個人の内部から湧き出てこない、個人の中に主体はない、関係こそ主体だ。
なんとかしてこうした閉塞状況から抜け出なければならないのだ。
「ところで」とあなたは言った。「きみは今まで何をやっていたんだい?」
「さっきまでポスティングのアルバイトをしていたんだ」と僕は言った。
「ポスティング?」とあなたは言った。
「うん、でも、もうやりたくないね」と僕はうんざりした表情を浮かべて言った。
「何があったんだい?」とあなたは訊ねた。
「誰も見るわけもないチラシをさ、必死になって配っているチラシ配布員もそうだけれど、チラシ配布員がチラシを郵便ポストに投函しているか監視している監視員の仕事の虚しさにね」と僕は愚痴をこぼした。
「すべてが消耗品さ」とあなたは言った。「人間はみんな消耗品でしかないのさ」
「僕らは物じゃない、人間だよ」と僕は言った。
「いずれにせよ、みんな人は死ぬのさ。無くなってしまうのさ」とあなたは言った。「生は止まり方の一変形にすぎないんだから」
「止まるために僕らは動いているってわけ?」と僕は問いかけた。
「そうさ、そうであるに決まっている」とあなたは静かに言った。「そうでなければ耐えられない。生きることが止まるためになければ、生き地獄さ。だからこそ、なんだって耐えられる。こうしておれがホームレスをしていることもね」
「僕らは耐えるしかないんだろうか?」と僕は再び問いかけた。
「わからない」とあなたは言った。
「わからない」と僕は反復した。
「うん」とあなたは静かに言った。
「お前らそんなところで何をやっているんだ!」
どこからともなく僕らを罵倒する声が聞こえてきた。
後ろを振り向くと、厳つい顔をした少年たち四人が接近していた。僕らは驚き、後ずさりした。声すらもでないほど、恐怖感が僕らを襲った。すると、少年たちの一人がいきなり僕の胸倉を摑んできた。
「きたねぇー面して、こんなところで生きてんじゃねぇーよ」少年は僕の顔に唾を吹きかけ、襲いかかってきた。
「何をするんだ、きみたち、やめたまえ」僕は抵抗するが、少年の腕はびくともしなかった。
「何をするんだ、きみたち、やめたまえ、だってよ」と少年は僕の言った言葉を繰り返した。周りにいる少年たちは腹を抱えて哄笑している。
僕は少年に往復ビンタをされながらも、横眼であなたの方を見た。あなたは羽交い絞めにされ、少年たちに殴られたり蹴られたりしていた。しかし、あなたは抵抗しない。声も出さず、ずっと目を瞑ったまま、少年たちの暴力に耐えているようだった。
「やめてくれ、あの人は何もやっていないじゃないか、そんなひどいことしたらただじゃすまないぞ」と僕は少年たちを怒鳴りつけたが、怒鳴りつければつけるほど、彼らからの反撃が待っていた。もうどうすることもできなかった。
以前、中学生たちがホームレスを殴り殺した事件があったと僕は殴られながら思い出した。理不尽な事件だ。加害者の少年たちはケラッチョ狩りだとか街の掃除だと言ってホームレスを虫けら同然扱い。罪悪感なんか微塵もない。そればかりじゃない。ネットカフェ難民の男性がホームレスと勘違いされて少年たちにライターオイルで火を点けられる事件も起きた。女性の野宿生活者だったら性犯罪被害者となる危険性があるわけだ。襲撃されたホームレスは訴える気力なんか持っていない。だんまりだ。だから奴らはやりたい放題ってわけだ。いや、ホームレス同士の事件も起こっていたぞ。理由はお金欲しさ。住むところがなくて困っていたからというのもあった。いずれにせよ、今の僕とあなたはどんな状況なんだろうか。少年たちよ、きみたちだって毎日抑圧されながら生きているんだよな、どちらが弱いってわけではない。いや、弱い中にまた弱い者をつくっていくのがいじめの構造じゃないか。そうやってどんどん弱い者弱い者をつくっていって、永遠と弱い者いじめは続いていくんだ。
僕らはただここにいただけ、ここでこうして話していただけじゃないか。ただそれだけだというのに。僕らにもう構わないでくれよ。お前らは僕らにとって闖入者だ。僕らの内面を土足で踏み込んだ不法侵入者だ。僕らは何も悪いことをしていない。ただ気力もなく、働けない。だからそれだけのことではないか。
僕は知らぬ間に気を失っていた。意識が覚めると、あたりには誰もいなかった。僕は必死に地面を這ってあなたのところへ辿り着いた。
あなたはすでに死んでいた。
抵抗したって理不尽な世界は微動だにしない。どんな正論を語ろうが、どんな理屈を並べたてようが、自分の外で世の中は動いている。世の中は自分の味方ではない。理不尽な世界のまま、現実を受け入れる。そうやって人は社会を了解するしかない。だから、自分の世界が外の世界と引き裂かれないために、自分の世界なんて棚上げにして外の世界に身を預けて生きていく。人はそうして生きている。あなたの死に顔は僕にそう語り掛けていた。
僕は涙を流しながら澱んだ空を見上げ、目を閉じた。(続く)
連載小説第14回 筒抜け
山田 育男
僕が闇の中で何かに脅えながらしゃがみ込んでいる。あまりの恐ろしさに身体がぶるぶると小刻みに震えている。
どうやらここは僕のアパートのようだ。明かりは点いていないけれど、確かにここは僕のアパートのようだ。
そうか、アパートに戻ってきたのか、早く手紙を読まなければ、と僕は思った。
すると、僕の部屋のドアのノックの音がけたたましく響き渡る。しかし、ドアの向こうから呼び掛ける声はない。郵便ポストに郵便物が投函された音だけがした。
僕は部屋の明かりを点け、郵便ポストを覗いた。手紙のようだ。宛名は僕であるけれど、差出人の名前がぼやけてみえない。チラシ配布員を尾行している際、郵便配達人が手紙を差し返したものだ。僕は郵便配達人を呼び止めるために急いでドアを開けた。誰もいない。郵便配達人の気配すら感じない。そもそも僕の他に誰も存在しないかのように、辺りは静かなままだ。僕はドアを閉め、部屋に戻った。
もう一度、僕は手紙の差出人の名前を確かめる。先刻までぼやけていたはずの差出人の名前がきれいに消えていた。その代わり、僕の宛名ははっきりと書かれていた。奇妙に思ったけれど、覗き見主義的な好奇心からか、僕は手紙の封を切り、手紙を取り出す。僕は手紙に書かれた言葉を音読する。
「人生はぼくに何を期待しているのか」
フランクルの言葉が僕の背中をグリグリと押し付けてきたまさにその瞬間、僕は、目が覚めた。僕の意識が少しばかり見開いた。僕のシャツが寝汗でびしょ濡れになっていた。嫌な夢を見たな、と僕は感じた。ただ、フランクルの言葉だけは僕の内部に大切にしまっておこうと僕は思った。
ここに僕がいる。殻に閉じこもった僕の世界が。頑なに抱え込んでいるものは何か。後生大事に僕の懐の中に隠している声はいったい何なのか。僕はまだその声を知らない。その声を僕の内部で爆発させていくべきなのか。それとも外へ向かって爆破させるべきなのか。それは僕にはわからない。それは闇にしかわからないことだ。
僕の身体はぶるぶると小刻みに震えている。いや、僕の身体が震えているのではない。僕の懐の中に隠れた声の震動が僕の身体を震わせているのではないか。僕はそう思った。
郵便配達人が僕に送り届けた手紙は他人の声だ。他人から呼び掛けられた僕の闇だ。それが僕自身を規定する何かであったとしても、僕はみずからその声を受け取り、僕の懐の中に収め、爆破させねばならない。僕はその爆破音を自分の耳で塞ぐことはできない。塞いではならないのだ。それが僕にとってどんな内容をさし示していようとも。
それが底なし沼からの抵抗なのだ。
僕の意識が見開きはじめると、とつぜん、僕の部屋のドアを叩きつけるノックの音がした。ノックの音が僕の部屋のドアを激しく叩きつける。けたたましく響き渡るノックの音は、先刻まで酩酊状態であった頭を不快にはしなかった。むしろ、意識を覚醒させた。僕は爽快な気分でドアの向こうにいる誰かを迎えた。
「わたくしは郵便配達人でございます。Hさん、このドアを開けていただけますか?」と郵便配達人は言った。
「ずっと君を待っていましたよ」と僕は応えた。
「ありがとうございます」と郵便配達人は言った。
「どういたしまして」と僕は言った。
「昨日、Hさんからお願いされた内容証明の件ですが、大家さんに内容証明郵便をしっかりとお届け致しました」と郵便配達人は言った。
「そうですか、ありがとう。しかしその件ですが」と僕は言った。「もういいんですよ。もうすべては終わったんです」
「終わった?」と郵便配達人は言った。「終わったって、どういうことでしょうか?」
「もうこのままでいいのです」と僕は言った。「何も抵抗せず、すべてを受け入れることにしました。もう僕は終わりにしたいのです」
「大家さんのリアクションを待たずして、ですか?」と郵便配達人は言った。
「そうです」と僕は言った。「世界は僕の中で何も起こっていないんです。僕の外で世界が確かな足音を立てて動いています。でも、世界の鏡に僕の世界は映っていない」
「このままで」と郵便配達人は言った。「このままでいいのですか? このまま鮫島に退去通告を受け、このアパートごと改装工事をされて、Hさんの住居もろとも破壊されてしまうではないですか?」
「僕のことはどうでもよいのです」と僕は静かに応えた。
「Hさんだけでなく、ここには何人かの住民がいます。あなただけではありませんよ」
「ここにいる住民は」と僕は言った。「おそらくもう誰もいません。事が起きる前から白旗を上げていますよ」
「そんなことはありません! きっとあなたを待っているはずです」と郵便配達人は語気を強めて言い返した。
「僕がここに住んでいることすら知りませんよ」と僕は冷淡に応えた。「抵抗しないことで自分の存在をかろうじてやり過ごすことが生きるコツなんだから」
「Hさん、いったいどうしたというのですか? あなたらしくない」と郵便配達人は言った。
「いや、このままでよいとは言っていませんよ」と僕は言った。「僕には僕なりの抵抗の仕方があります」(続く)
連載小説最終回 筒抜け
山田 育男
「いったいどういうことですか?」と郵便配達人は言った。
「ここからは一歩も出ませんよ」と僕は力強く応えた。「この場所から僕の滅びゆく姿に抵抗したいのです。すべてが失ってしまった後で、僕の世界が踏み出されるのです。その姿を僕の外で見ていていただきたいのです。だから、僕はこのドアを開けないことにします。しかし、それは、僕がきみとはじめて出会った時の気分とは違う。わずらわしさからではない。僕はきみに僕を見届けていただきたいのですよ」
「Hさんの終わりを、ですか?」と郵便配達人は言った。
「僕の存在の終わり?」と僕は天井を見上げて少し考えた。「そう、存在の終わりです。それは言葉の終わりです。これから僕が残していく言葉の終わりを見届けていただたいのです」
「言っている意味がよくわかりません」と郵便配達人は苛立ちを隠しきれない。「言葉ではない。あなたはあなたではないですか?」
「これから鮫島たちがこのアパートの改装工事のためにやってくるでしょう。そして、このアパートを暴力的に破壊していきます」と僕は言った。「でも、はじめから僕には住居がなかったのかもしれませんよ。自分の存在を確証することさえできなかった僕にはじめから住む家などなかったんだ。僕は、故郷すらない、家なき子だったんですよ。だからこそ、自分の故郷を求めるためには、一度何かを破壊しなければならない、失わなければならないんだ」
すると、アパートに衝撃音が走った。トラックがアパートに突っ込んできたようだった。僕の部屋の本棚が僕に倒れかかってきた。僕はバランスを崩し、床に倒れた。
「ど・どうやらあいつらが来たようだね」と僕は言った。
「Hさん、危ないです。早く部屋から出てください」と郵便配達人はドアを拳で叩きつけた。
「出口はそこにはない。そして、ここにもないんだ」と僕は言った。「出口はすべてが失われてしまった後にできるんだ。絶望の遥か向こう側に」
「結論を急いではいけません。ところで、あ・あなたはわたくしが送り届けた手紙を読まれましたでしょうか?」と郵便配達人は問いかけた。
「読んでいないよ」と僕は郵便配達人に嘘をついた。「その必要性はなくなった」
「いや、わたくしは本当のことをしっています。読んだのでしょう? 詠んだはずです。わたくしはあなたの声が聞こえています。嘘をつくのはやめてください。その手紙の中にこれからのヒントが隠されているかもしれません。その手紙の言葉にしっかりと向き合ってください。お願いします」郵便配達人は叫んだ。
「ヒントは僕自身にあるんだ。僕の世界をみずからの手で破壊し、粉々に砕け散ってしまった自分の中にヒントは隠されているんだ」と僕は言った。「僕の部屋の壁をすべて叩き壊して、壁穴から僕以外の誰かの侵入を待つしかない。だから、僕の部屋はあいつらには決して触れさせない。僕の部屋は僕自身で壊したい。みずからの手で解体する音を僕自身の耳で聴き取るのさ。出口も入口もない。あるのは世界だけだ。世界の果て、そして眠りの闇に」
僕はそう言った後、テーブルの上にある郵便配達人から受け取った手紙を取り出した。僕はライターで手紙を燃やしはじめた。僕は部屋中の本棚をすべて倒し、燃え上がる手紙を本の上にそっとのせた。炎は瞬く間に本やカーテン、壁に燃え移った。僕は部屋のパソコンをガラス窓に投げつけた。ガラスの破片はアパートの外に粉々に砕け飛んだ。
外ではあいつらが僕らのアパートの外壁をパワーシャベルで壊している。あいつらに任せておけない。これは僕の任務だ。僕は僕自身でしか壊せない。僕は狂ったように四辺の壁やガラス窓に拳を叩きつけ、力いっぱい足で蹴りつけた。壁穴が開いた。壁穴の向こうには何も見えない。誰もいない。見えなければ内側からもっと破壊するしかないのだ。
燃え上がった炎は郵便配達人から受け取った手紙を呑み込んだ。手紙はもう必要ないのだ。
僕はここから出られない。それでいい。すべてを失った後に、僕はここから出発する。僕はここから遥か向こう側の誰かにみずから手紙を書く。僕の存在を賭けた言葉で他者に送り届ける。そこから僕の世界ははじめて僕から離陸できるだろう。(完結)